昨日の東京はとても良く晴れていたので、よろこんで布団を干しました。
日に当てていたのはほんの数時間だけなのに、夜寝るときもまだぽかぽかで、
太陽のにおいのする布団にくるまりながら、思わずニヤニヤしてしまうのを抑えることができませんでした。
でも、太陽の実力はそんなもんじゃなかった……!
今朝、起きて布団を出た瞬間に思ったんです。
「……!? なんだか足先があたたかい……???」
そうなんです、私はとても冷えやすい体質で、
季節を問わず、朝起きたときに、すでに足の指先に冷えを感じるのが常だったのですが、
今朝に関しては、そのひんやり感が微塵もなく……!
ちゃんと足先まで血が巡っている感じがしたんですね~。
これ、考えられる原因はただひとつで。
「お天道さま、なんというかありがとう……!」
というところで。
太陽とは、なんとありがたい存在なのでしょうか……。
しみじみ、感動いたしました……。
なむなむ!!! です。
……いや、でも、これ、冷静になって考えてみれば、
お天道さまの方では、別に、
「小出の足先の血行をよくしてやろう」
なんてことは、多分これっぽっちも思っていないわけで。
それどころか、
「布団の湿気を取り去ってやろう」
とか、
「殺菌してやろう」
とか、
そんなことすら思っていないわけで。
太陽は、ただただ太陽をやっているだけなんですよね。
でも、そこにこそ、人間の学ぶべき姿があるような気がするんです。
人間も、その人その人にとって、もっとも「自然」な姿でいるときに、
もっともその存在自体が輝いて、周りの人々にも力を与える存在になるんじゃないかな、と思うんです。
「あたためてあげよう」とか、「やさしくしてあげよう」とか、「励ましてあげよう」とか、
そんな風に無理に思わなくても、
その人がその人としているだけで、周りが勝手に力をもらって、元気になっていく。
それこそが「自然」というものなんじゃないのかな、って。
四国のお遍路中にもよく思いました。
道端に楽しげに咲く花々だとか、そよ風に葉を揺らす木々だとか、
それらのうち、どれかひとつでも欠けていたら、私はあの道を歩き通すことはできなかっただろうな……
そう思うようなところが、いままでにもいくつもあって。
彼らの存在に、私は、ものすごく励まされたんです。
でも。
花々や木々は、決して、「小出を力づけてあげよう」なんてことを思って、そこに咲いていたり、立っていたりしたわけじゃなくて。
彼らはただただ彼らとして生きていた、
そこに、私が勝手に励ましを見出していただけなんです。
どんな存在だって、きっと、そもそもその存在だけで、他を利するように作られていると思うんです。
その存在が、ごくごく「自然」に、「その存在」としてそこにあるだけで光を放ち、
その光が周りをも照らして、照らされた存在がまたその周りを照らして、
そうやって世界は光に満ちた場所になっていく……。
それが、世界の本来の姿なのだろうな、と。
いや、もちろん、
「あの人にやさしくしてあげよう!」「励ましてあげよう!」「力になってあげよう!」
そんな風に思ってする行為だって、ものすごく尊いものだと思います。
でも、そこに少しでも「無理」、つまり「理(ことわり)」の「無い」こと、
もっと言えば「不自然」なものがあったら、
結局、相手も、そして自分をも、さらに疲弊させてしまう……といった悲劇が起こってくるんですね。
「自然」には、「無理」がないんです。
だって、「自然」そのものが「理(ことわり)」なのだから。
そもそもそうあるべき姿で「ある」だけなのだから、無駄な力なんか入りようがないんですね。
そして、それこそが、実はもっとも調和的で、自分も周りもしあわせな姿なのだと思う。
だって、もともとはぜんぶがひとつだし、ひとつでぜんぶなのだから。
……って、最後いきなりぶっ飛んだ???
いまの、「自然」じゃなかった???笑
「自然」に、生きたいですね。
いや、「自然」そのものとして、生きたいですね。
「自然」そのものとして、生きていきましょう。