少し前に【「軸」とか「芯」とか。】という記事を書きましたが、
あれからも、ず~っとこれの議題(?)について考え続けています。
小出さんも暇ですね~。
まあ、結論としては、結局、前回と同じで、
「軸」やら「芯」やらはカチカチに固い一本の棒のようなものじゃなくて、柔軟性そのものだ、
というところなのですが、今回はちょっと違う言い方でそれを表してみます。
この世の中に、固定されたものなんかありません。
すべては移りかわっていきます。
あんなに派手に咲き誇っていた花もあっという間に散っていき、
いまでは初々しい若葉が枝の先をにぎわせています。
この葉も、やがては茶色くなって、地面に還っていくでしょう。
人間だってそうです。
みんな、死にゆく存在です。
自分だけは老いたくない! と叫んでも、それは無理な相談です。
しわや白髪は日々確実に増えていくし、それを免れる人はいないんです。
昨日の私と、今日の私は、細胞レベルで見れば、実はまったくの別人です。
だからどうということもありません。
ただ、それが当たり前なのだというだけです。
すべては移り変わっていく、なにひとつとして確かなものなどない、
そんな世の中で、唯一「確か」と呼べるのは、
「すべては移り変わっていく、なにひとつとして確かなものなどない」
その事実、それ自体なんですね。
なんだか逆説的ではありますが……。
すべてを移り変わるものとして存在させている“なにか”だけは、
決して移り変わることがないんです。
すべてが移り変わるこの世の中において、「軸」やら「芯」やらを打ちたてようとしたって土台無理なお話で。
だって、その「軸」やら「芯」やらだって、「これだ!!!」と打ち立てた瞬間に、すでに古くなっているんです。
「軸」やら「芯」やらを打ち立てる自分自体、刻一刻と古くなっているのだから。
ただ、ひとつだけ抜け道があって。
それは、すべてを移り変わらせている“なにか”こそを、自分の存在の「軸」にしてしまうこと。
その“なにか”こそを、「自分のほんとうの姿」なのだと認識してしまうことです。
「自分」というのが、この狭苦しい肉体に閉じ込められた、この個別の意識(たとえば「小出遥子」)のことではなく、
全世界にあまねく広がる意識、
というか、全世界、それ自体のことを指すことばだとしたら……?
そして、それが、まったき事実なのだとしたら……?
少し、想像してみてください。
世界は自分だし、自分が世界。
そうだとしたら、自分の行く道すべてが自分なわけで、
そうなってくると、そこからブレようとしたって、そんなことはできないし、
そもそも「ブレる」という概念すら生じなくなるわけで。
すべてを「自分」として生きること、
それは決して難しいことではありません。
だって、本来私たちは「それ」なんだから。
あたらしい知識として(むりやり)「身につける」のではなく、
元々そうであったことを(自然に)「思い出す」だけでいいんです。
そして、実は、私たちは、日々の中で、少しずつ「それ」を「思い出」しているんです。
「プチ悟り」とでも呼ぶべき瞬間は、割とふつうに日常の中に存在しているんですね。
ただ、あまりにも、個人個人のストーリー、私の場合で言えば「小出遥子」のストーリーが強すぎて、
その「プチ悟り」によって見た世界を、「夢」だとして処理してしまうんです。
ほんとうは、「小出遥子」のストーリーの方が夢なのに……。
「軸」や「芯」なんて、無理に打ち立てようとしなくても、すでに自分の中にあるのだと思います。
というか、「自分」という存在、そのものが、すでに「軸」であり、「芯」なのです。
大丈夫。誰一人、ブレている人なんかいないよ。
あなたはいつだって世界のど真ん中で生きています。
というか、あなた自体が、世界です。
世界は、あなた自身です。
ものすごく意味が分かりづらい話だと思うけれど、
まあ、無理に理解しようと思わなくてもいいです。
ただ、思い出してください。
「それ」こそが、あなたです。
素晴らしき日を。