昨日は、あるとても興味深いワークショップに参加しました。
そこでなにをしたかというと、自分の「死」についてひたすらに考えるということ。
私たちは、ふだん、「自分もいつか死ぬんだ」という当たり前の事実を忘れたままに生きています。
でも、「生」と「死」はいつだってセットで、そこを切り離すことはできないんです。
「死」を考えることは、そのまま「生」を考えること。
そのワークショップの会場にいさせていただくこと自体、大変有意義な時間だなあ、と思いました。
……が。
が! ですよ。
途中で思いました。というか、気づきました。
「私、ここに参加しちゃいけなかったな……」
と言うのは、私、もうまったく、自分の死が怖くないんです。
これ、なんの強がりも力みもなく言っています。
本当に、まったく、一ミリも怖くないんです。
私、あるとき気づいちゃったんですよね。
「人は死なない。そもそも生まれてもいないから。」
って。
それは理屈を超えたところにある、圧倒的な気づきでした。
いや、もちろん、個別の肉体は終了するでしょう。
それは避けられないことでしょう。
でも、個別の肉体、小出遥子の肉体の活動が止まり、やがて朽ち果てたあとでも、
変わらずそこに存在し続ける世界があるんです。
それは「個別の魂」とか「生まれ変わり」とか、そういうものともまた違っていて、
もっともっと果てしなく広いもので、
それこそ、文字通り「すべて」を意味するようなもので……。
そう、人は肉体を終了すると、「すべて」になるんです。
というか、そもそもすべて“で”あった「自分」に気づくというか。
個別の肉体の内側に閉じ込められていた、
というか、個別の肉体によって区切られていた「自分」が、
肉体の終了によってそこから解放され、元あった姿に戻っていく、
というか、元々の「自分」の姿を思い出す、
それが「死」の瞬間に起こることです。
そういう意味で、「死」には、「出立」というより、
「帰還」ということばが当てはまるのだと思います。
私は、自分の「死」を思うと、むしろ安らぎます。
「ただいま」、なんてことばが、口をついて出てきます。
……なんてことを書くと、「死」という現象について悟り切った人のように思われるかもしれないけれど、
実はぜんぜんそんなことはなくて。
たしかに、自分自身の「死」については、そこに恐怖心はありません。
もう、ぜんぜんありません。
自分が死ぬことに関しては、本当に、まったく、一ミリも怖くないんです。
私はふだん、
「この世に(肉体を持って)生まれてきた役割を果たすこと」
それを主軸として生きているのですが、
それだって、もう、割と「お任せ」しているというか、
「自然な状態で生きていれば、自然とそうなっていくだろう(役割を果たせるようになっていくのだろう)」
と、ほとんどそういうところを生きていて……。
だから、肉体の終了という意味での自分の「死」だって、
きっと、完璧なタイミングで起こるのだろう、と、
そんな風に感じていて、
というか、そういう風にしてくれるであろう世界を信頼していて……。
だから、死ぬのすら、(個別の肉体を持った)自分の「最後の役割」というか、
きっとそれすら「すべて」にとって必要なことだから起こってくるのだろうから、
そこも、まあ、「南無阿弥陀仏」というか……。笑
「死」の瞬間は、ひたすらに穏やかな笑みを浮かべているであろう自分が、ものすごく容易に想像できるんです。
自分が死ぬことは、本当に、ぜんぜん怖くない。
でも。
大切な人には、死んで欲しくないんです。
嫌なんです。想像もしたくない。
そんなストーリーは味わいたくない。
当然です。
人間だもの……。
もちろん、その大切な人だって、死の瞬間に圧倒的な安らぎに包まれるであろうことはわかるんです。
「死」によって、本人に苦痛がもたらされることは絶対にない。
死んだ人は必ず成仏する、というかそもそも「仏」であった自分を思い出す。
どんな死に方をした人だって、確実にそうなんです。
それは理解しているんです。
それでも。
その人を失ったあとの自分の生活を想像することは、つらいです。
苦しいです。
考えたくないです。
それらが結びつかない自分を、未熟だなあ、ブレているなあ、とも思うけれど、
未熟なままでいいよ、ブレたままでいいよ、とも思います。
大切な人の死には、ちゃんと心を痛めたい。そして悼みたい。
私は、ただ、それをしたいんです。
それでいいし、それがいいな、と思います。
他者の死を悼むことは、個別の肉体を持った存在にしか許されないことなのだから、
それならば、悲しみも、嘆きも、苦しみも、
いま、ここで、存分に、味わってやろうじゃないか、と。
そんなことを思うのです。
ありがたいワークショップでした。
参加できて良かったです。
ご縁に感謝。