「この人とは、まったく違う設定の中で出会いたかったな……」
そんな風に思う相手、いたりしませんか。
出会い方さえ違っていれば、たぶん、もっともっとお互いを尊重し合うことができたであろう、
でも、設定からして、お互いがお互いを快いものとして受けいれる余地は、最初から用意されていないような、そんな相手。
設定も関係性もなにもない、まっさらな状態で、完全に一対一で、まっすぐにお互いを見つめることができたなら、
きっとそこには素晴らしいものが生まれたであろう、
でも、そんなことは夢のまた夢……と言わざるを得ないほど、
自分のいまいる位置とは遠く隔たった場所に立つ、
対岸の彼、そして、対岸の彼女。
悔しいんですよ。
なにが悔しいって、この「どうにもならなさ」が。
でも、仕方ないんです。
だって「縁」の網目の中では、その位置にいちゃったんだもの。
どうしようもなく、「そこ」にいちゃったんだもの。
世の中には、絶対的な「良い人」も、絶対的な「悪い人」もいなくて、
ただただ、「“自分にとっての”良い人」と、「“自分にとっての”悪い人」がいるだけ。
いや、それどころか、「やさしい」だとか、「ケチ」だとか、「おしゃべり」だとか、「しっかり者」だとか、「テキトー」だとか、「仕事ができる」だとか、
そういうのすら、ぜんぶ、結局、“自分から見た”相手のキャラクターにすぎないわけで。
そして、それらは、ぜんぶ、「縁によって」決まってくるのですね。
自分にとっては「めちゃめちゃ厳しい上司」である彼も、
彼の娘さんにとっては、「ものすご~く甘いパパ」であるかもしれない。
自分にとっては「天使のような女性!」である彼女も、
ある男性にとっては、「悪魔のような女……」であるかもしれない。
昨日、夫とも話していたんです。
彼は、基本的にはとても穏やかでもの静かな人であり、そういう人だと言われることも多いのですが、
でも、それは、たまたまそういう評価を彼に与える人が、彼にとって「穏やかでもの静か」であれる相手だったというだけのこと。
「俺だって、相手によっては、穏やかなんかじゃない、むしろとんでもなく激しくて、おぞましい感情を抱くことだってあるし……」
そんな風に、夫は言いました。
私は、彼を、誠実な人だな、と思いました。
もう、ぜんぶ、縁の網目の中で、「たまたま」「そういう風に」なってしまっているだけなんですね。
ぜんぶ、設定次第なんです。
その設定は、ひとりの人間がどうこうしていじれるようなものではないんです。
「どうにもならない」んです。
この「どうにもならなさ」は、歯がゆさも生むけれど、
でも、それをもひっくるめてすべてを受けいれた瞬間、
かつてないほどの安らぎが「自分」を包み込んでくれるのも事実です。
もう、「私のせい」とか、「彼のせい」とか、「彼女のせい」とか、思わなくていい。
ぜんぶ、「縁によって」起こったことなのであって、「誰かのせい」では決してない。
世界は、ただただ、そういう風に成り立っているだけ。
そこに「良い」も「悪い」もない。
ひとつひとつに判断を下し、評価を与えるようなことはしなくていい。
自分の意にそまない誰かやなにかを糾弾して排除するようなこともしなくていい。
自分がすべきなのは、ただただ縁の網目の中で、懸命に「自分」を生ききること、
ただ、それだけ。
対岸の彼、対岸の彼女を、無理に愛そうとする必要はないです。
ただ、その存在を認めてあげることは、もしかしたら、思っているほど難しいことではないのかもしれない。
誰だって、等しく、縁の網目の中で懸命に生きている仲間なんです。
そこには一切の差がないんです。
そのレベルにまで降りていけば(もしくは上がっていけば)、
この地は、そのまま「浄土」になるのでしょう。
私は、浄土を、生きたいです。
浄土を、生きていきましょう。