先日の藤田一照さんの仏教塾の最後の方に、司会の桜井肖典さんからこんなお話がありました。
「いまの若い人たちは、自分の中に“軸”や“芯”を作って、そこからブレないように生きたいと思っているようです。ブレない存在への憧れがあるというか。」
塾への参加動機などを見ていると、割と多くの方々から、こういった傾向が感じられるということでした。
「軸」。
この言葉は、タイムリーに、塾の前日に書いた「本と私 その1」という記事の中でも使っていました。
でも、とくにその意味するところを明確にイメージして使っていたわけではないので(情けないですねえ)、これを機会に、あらためて考えてみました。
「軸」や「芯」って、いったいなんなのさ???
まず、私の中で、「軸」という言葉と、「ブレ」という言葉とが、あまりぴたっと組み合わさらないなあ……というところに気づきました。
そこで思いました。
「軸」とは、決して、なにか、全身を貫く固い棒のようなものなんかじゃないのでは? と。
じゃあどんなイメージなのか、と言われたら、ここがなんともばしっと言葉にしづらいところなのですが……
あえて言うならば、「柔軟性」それ自体が「軸」と呼ばれるものなんじゃないか、と。
「しなやかでたくましい態度そのもの」と言ってもいいかもしれない。
たとえば、世界に、ちょうど人間がひとりおさまることのできるぐらいの大きさの穴がぽっかりとあいているとします。
その穴は、確実に、自分という存在を求めています。
自分さえそこにはまってしまえば、世界は完璧なものとなります。
このような場面で、まず、自分自身をその穴に飛び込ませる勇気を持っていること、
それ自体が、すでに、「軸」のある人の行動だと思うのです。
これが第一条件。
さらに。
この、「世界にあいている穴」のかたちは、決して固定されていないんですね。
ぐにゃぐにゃとして、毎秒、毎瞬、微妙にかたちを変え続けている。
その流動的な穴に、自分自身を、いかにぴたっとはめこむのか。
変なこだわりにしがみつかずに、いかに自分自身をその穴のかたちに合わせていくか。
それをちゃんと考えた上で、ごくごく自然に実行できる、
その「柔軟性」を持つ人こそが、「軸」のある人だと呼べるんじゃないかな。
「自分はこれこれこういう形をしています!」と断言してしまえる人=「軸」のある人というわけじゃなくて、
「世界の求める形こそが、自分の形です」と、気負いなく言えてしまう人こそが、真の意味での「軸」のある人。
私は、そんな風に感じるのです。
「自分の中に“軸”を見つける」というのは、つまり、
世界の中に、自分という存在がぴたっとはまりこめるような穴、それ自体を見つけること、
もしくは、その穴があいていそうなフィールドを見つけること、その方向性を見定めること、
それを指す言葉なんじゃないかな~。
そうなってくると、「“軸”を養う」というのは、
いざ、目の前に穴があらわれたとき、「我」というものからフリーになって、即座にそこに自分を飛び込ませていくための
日々の鍛練、修行、
それらを指す言葉になりますね。
かたちとしての軸を持たない人の方が、むしろほんとうの意味での軸を持つ。
なんだか禅問答みたいですね。
でも、ここに真実があるように思うのです。
「軸」のある人になりたいですね。
だってそっちの方が楽しそうだもんね。
今日も、できるだけしなやかに、たくましく生きていきましょう。