桜の季節もそろそろおしまいです。
でも、散り残った桜のピンクと、勢いよくふき出してきた若葉の黄緑との共演も、
それはそれでなんとも言えずうつくしいもので、思わず足を止めて見入ってしまいます。
この若葉の季節も一瞬で、夏には青々とした葉が力強く風にそよぐ姿を眩しく眺め、
秋には赤や黄色の色づきに、冬は冬でその一抹のさみしさ漂う立ち姿の中に、
私たちは、また、その時々にしか感じられないうつくしさを見い出していくのでしょう。
瞬間瞬間、目の前に次々と展開されていくあたらしい光景を夢中で追いかけ、
そのはかなさゆえのうつくしさにこころを震わせているうちに、
人間の一生なんていうものは、きっと、あっという間に過ぎていってしまうのでしょうね。
そこに意味はあるのか?
と聞かれたら、
意味なんてないんじゃないの?
と答えるほかないような気もします。
でも。
確かに、その時々の「いま」があって、
その時々の「いま」に、こころを全力で震わせていた、
その事実は、
もうそれだけで、なにものにも勝る価値のあることだと思うのです。
もうそれだけで、「生まれてきて良かったね」と言えてしまうほどのことだと思うのです。
感動を固定化して持ち歩くことはできません。
それはこころの動きそのものだからです。
でも、こころが動いた「いま」は、ずっと「いま」にあるんです。
花盛りの頃の「いま」も、若葉の頃の「いま」も、紅葉の頃の「いま」も、落葉の頃の「いま」も、
ずっと、ずっと、ずーっと「いま」です。
ほんとうは、いつだって「いま」なんです。
「いま」は、そのまま、「永遠」なんです。
うつろいゆく世の中にあって、唯一変わらないものが、「いま」という名の「永遠」です。
「いま」に感動して生きることだけが、「永遠」につながる道になります。
「次の場所」「次の季節」なんてものは、どこにもないのかもしれません。
ほんとうはいつだって「いま」で、
私たちは、「いま」以外に生きることはできないのだから。
あと数時間で引っ越し屋さんがやってきます。
目にうつる景色が違っても、一緒に住む人が変わっても、どんなに季節が巡っても、
私たちはいつだって「いま」にいます。
ほんとうはどこにも行っておらず、
いつだって、変わることなく「いま」にいます。
いつだって、変わることなく、「いま」を生きています。
いままでも、これから先も、ずっと、ずっと。