「あれが最後になるとは思わなかった。最後だとわかっていたなら、もっとこんな風にできただろう。あんな風にもできたかもしれない……」
そういった感慨は、私も、この人生で何度も何度も味わってきました。
そのたびに、多かれ少なかれ後悔という名の砂を噛みしめてきたわけですが、
かと言って、「最後だとわかっていた」として、なにか行動が劇的に変わるかというと、実はそんなこともないのですよね。
時の流れの前ではまったくもって無力な存在である自分自身に若干の歯がゆさを感じながら、
結局、行動としては「いつも」と同じことを繰り返すほかなく、
結果として、あまりにも何気ない感じで「最後」のラインをまたいでしまう……
そんなことが多いような気がするのです。
でも。
「行動」自体は変わらなくても、その行動をとるときの心持ちは、意識次第でなんとかなるものですね。
って、ごめんなさい、なんの話かと言うと引っ越しです……(笑)
明日、私はこの大好きな街、大好きな部屋を離れて、次の場所に向かいます。
「感謝は行為ではない、状態だ!」
とは、過去、何度も繰り返してきた主張です。
ほんとうの感謝というものは、自ずと湧き上がってきて、自分自身をも含めた世界全体をすっぽりと覆ってしまうものであり、
その「自ずと」というところを無視して、どこか無理やりに「ありがとう」と思ったり口に出したりするのは違うんじゃないか、と。
「感謝」をツール化するなんてエゴっぽいなあ……とかね、
正直、そんなこと思ってました。
でも。
いざ、この大好きな街、大好きな部屋を離れるとなったいま、
「ありがとう」という言葉の有効性に驚いています。
「ありがとう」の思いを込めながら歩くと、歩調が自然とゆっくりになります。
「ありがとう」の思いを込めながらお茶をいれると、お湯の湧く音、茶葉の香り、炎の熱さ、それらかすかなものたちの存在を、より身に迫ったものとして感じられます。
「ありがとう」の思いを込めながら自室の窓の外をのぞくと、大好きだった風景が、よりやさしくこの目にうつります。
「ありがとう」をこころに置いて行動をすると、五感のすべてが、より鋭敏になって、「ひらかれる」感じがするのです。
するとどうなるか。
ある瞬間に、時間が止まるんですね。
止まった時間の中に、「永遠」を見るようになる。
「永遠」を見ると、「おそれ」が消えます。
「おそれ」が消えると、「愛」で満たされます。
「愛」は圧倒的な納得をもたらします。
「ぜんぶ、これでいいのだ」と思わせてくれます。
「最後」の瞬間、「別れ」の瞬間に、絶対的な全肯定があることって、
これ以上ない「救い」だし、これ以上ない「祝福」だと思うのです。
そうか。こういうことだったのか……。
ようやく理解できました。
「ありがとう」は、確かに、魔法の言葉でした。ありがたい言葉でした。
「ありがとう」に、ありがとう、です。
この街、この部屋にいられる残り時間のカウントダウンがスタートしました。
一秒一秒を、感謝の言葉で永遠に変えて、圧倒的な祝福を胸に、次の場所に向かおうと思います。
ばいばい、武蔵野。ばいばい、207号室。
大好きでした。
ありがとう。