昨晩、友人と会ったのですが、彼女は日中、国立新美術館で開催中の『マグリット展』に行ってきたらしく、その感想を熱心に伝えてくれました。
「なんというか、彼の絵を眺めていると、そわそわ? ぞわぞわ? するんですよね。決して心地良い感覚ではない。でもどうしても惹かれてしまう。あれってなんなんですかね?」
それを聞いて、私自身、非常に思い当たることがありました。
私も、ずっと、仏像と対峙するとき、そんな感じだったから。
私が全国のお寺を訪ねてまわるようになったのは、確実に仏像がきっかけでした。
いまでこそ「仏像ブーム」やら「仏像女子」やら、そんな言葉も割とふつうに聞かれるようになって、
仏像を拝観するという行為自体が、かなりカジュアルなものとしてとらえられはじめていることを感じますが、
でも、私の場合、いままでに、もう、何百、何千もの仏像を実際に拝んできたけれど、いまだにそこに気軽さは持ち込めないようなところがあって……。
だって、はっきり言って「こわい」んですよ、仏像って。
人のような形をした、人じゃないものって、ものすごくこわい。
こわいんです。
そわそわ、ぞわぞわするんです。
こわくてこわくて、
どこか「見ちゃいけない」もののような気がしてしまって、
でも、それがゆえに、目が離せないというか……
どうしても、惹かれてしまうんですね。
「仏像と向き合っていると、心が落ち着いてくる」
というようなことを言うような人もたくさんいますが、
私は、そこに、絶対的な安心感、心からのくつろぎなんてものは、どうしたって持てなくて……
でも、仏像と向き合っていると、日常じゃ味わえない、なにか特別な状態の心持ちになることは確かなんですよね。
ただただ、「そわそわ」「ぞわぞわ」の先にある、どこか緊張感に満ちた「しん」とした圧倒的な静けさに身を浸したくて、
私は、あの頃、随分と熱心に、数多くの仏像を拝んでいたような気がするのです。
「こわい」、だけど「惹かれる」っていうのは、
自分の心からの、大きなサインなのかな、と思います。
そこになにかしら自分にとっての「ほんとう」があるから、
その予感が強く香っているから、
そして、ほんとうはいつだって“そこ”に戻っていきたい、と心の奥底で願い続けているから、
「こわい」のに、「見たくない」のに、「どうしても惹かれてしまう……」といったことが起こるのではないかな。
“それ”を思い出すことは、そりゃあ「こわい」ことなんです。
一度思い出したら、もう二度と元の自分ではいられなくなることがわかっているから。
でも。いつかはぜったいに思い出さなきゃいけないんですね。
友人にとってのマグリットの絵や、私にとっての仏像は、
決して、なにかあたらしいことを教えてくれる存在なのではなくて、
きっと、自分がほんとうは知っていて、でも忘れてしまっている「大切ななにか」を思い出すきっかけとなってくれる存在なのだと思います。
「思い出す」ためには、「心が動く」ことが必要で。
心が動いた方向に「ほんとうのこと」はあって、
ただただ“それ”を「思い出す」ためだけに、
私たちは、日々、いろいろなものを、
見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって、感じて……
そんな風にして生きているような気がしてならないのです。
マグリット展、行ってみようと思います。