なにかを選ぶ、ということは、選ばなかったもう片方に対して、多かれ少なかれ「否定」のニュアンスを自分の中に持ってしまう、ということなのだと。
それはなんとも悲しいことではあるけれど、この世で生きる上では、それもまた、どうしたって避けられないことなのだと。
そんな風に思っていました。
仕方ないのだ、と諦めることで、自分の中でバランスをとろうとしていました。
でも。そんなことをする必要はまったくなかったんです。
昨日は大学時代のバイト先の友人二人の結婚式に出席するために、慣れないヒールを履いて、横浜まで出かけていきました。
そこで、懐かしい友人たちと、数年ぶりの再会を果たしました。
昨日その場にいた友人たちはみなお酒が好きで、最初から最後まで、ずーっとグラスを片手に笑っていました。
「最近酒飲むと完全に記憶がなくなるんだよね。歳だね。でもいいんだよ、この場が楽しければ!」
そう言って赤い顔をしてげらげらと大声で笑う、かつての飲み仲間の輪の中で、ひとり素面の私は、それでもものすごく楽しかったし、その場にいられることがうれしかったし、しあわせだったんです。
お酒を大量に飲んでいる彼らと、一滴も飲まない私との間に、「楽しさ」や「うれしさ」という点で、一切の区別がなかったんです。
前はこんな風にはなれなかった。
「いいんだよ、私は好きでお酒を飲まないことに決めたんだから。自分で選んだことなんだから」
そう、頭では納得しているつもりでも、やっぱりどこか寂しくて、自分の選択が正しいものだったのかどうか、いまいち確信が持てなくて。
「ちょっと自分、極端すぎたんじゃないか?」
そういう風に思うことだって、正直、なかったとは言えませんでした。
その自信のなさから、自分の中に、どこかネガティブな言い訳を、無理やりに積み上げていたのでした。
「お酒を飲んで記憶をなくしてちゃ意味がない」
「酔っ払ってする会話に、実なんかあるわけがない」
「私は、もう、そんな場所にはいたくない」
そんな風に思って、盛り場から遠ざかっていました。
意識的に、遠ざかっていました。
その遠ざかり方には、やはり、どこか不自然なものがありました。
それは、「自分が好きで選んだこと」というところに自信が持てないゆえの、「もう片方の選択肢への否定」でした。
自分を肯定するための、他者への否定でした。
昨日、私は、披露宴が終わった段階で失礼させてもらったのですが、
二次会へと向かう仲間の集団を、ホテルのエスカレーターから、ひとり、ぼうっと眺め渡した瞬間、
なんのわだかまりもなく、ひとつの疑いもなく、一切の力みなく、まったく一分の隙もなく、
私は、彼らのことが、好きだ、と思いました。
彼らが好きだし、彼らが選んだ道が好きだし、これから彼らが選びゆく道も好きだ、と思いました。
お酒を飲むとか飲まないとか、二次会に行くとか行かないとか、正規雇用だとか非正規雇用だとか、結婚するとかしないとか、子どもを持つとか持たないとか、都会で生きていくとか田舎で生きていくとか……
そんなありとあらゆる違いなんかまったく関係なく、
ただただ共にこの世を生きる仲間として、
私は、彼らが、好きだ、と思いました。
彼らが、生きていてくれることが、うれしい、と思いました。
彼らに、生きていて欲しい、と思いました。
肯定や否定を遥かに超えた、絶対的な大肯定でした。
これでいいし、これがいいのだ、と思いました。
これから先、どんなに細かく道がわかれていっても、私たちは仲間なのだと――
共にこの世で生きる仲間なのだと――
「生きている」という点では、一切の違いはないのだと――
うまく言えないけれど、ふいに、そんな風に感じたのでした。
この地点から、生きていきたいと思ったのでした。
その思いは、圧倒的なものでした。
自分が選んだ道を肯定するために、もう片方の道を否定することなんかなかったんです。
ぜんぶ、それでいいんです。
この道を選んだ私も、違う道を選んだ彼らも。
みんな、等しく、この世を生きる仲間なんです。
「生きている」ことには、一ミリの差もないんです。
言葉にするとどうしたって陳腐になってしまうのですが……
でも、あの気持ちは、圧倒的でした。
死んだ人は、肉体を離れる瞬間、きっと、この世のすべてにたいして、こんなことを思うのだろうな。
みんな、ただただ、生きてください、生きていてください、と――
私たちは仲間です。
どうか、生きてください。
どうか、ただただ、生きていてください。