いまの自分、グッジョブ、です。

2015年3月28日

先日、何気なく、とあるスタバに足を踏み入れて、「はっ」としました。

 

そこは私の因縁の場所だったんです。

 

 

そこは新卒で入った編集プロダクションの近くのスタバで、

 

数年前、そこで上司にものすごく理不尽(と、当時の私には思えた)かつ暴力的な言葉を投げつけられ、

 

腹に据えかねた私は、

 

ものすごく突発的に、

 

「(こんな)会社、辞め(てやり)ます!」

 

宣言をしてしまったのでした……。

 

(カッコ内は心の声。ヘタレなんで実際に口にはできなかった……。)

 

 

 

言いながら自分で驚いていたことを覚えています。

 

言っちゃった直後に「ど~しよ~(涙)」と思ったことも。

 

いやー、ほんと、若かったな、と思います。

 

若くて、馬鹿で、自己中で、衝動的で、負けん気が強くて、傲慢で、いま以上に自信がなくて。

 

内心慌てふためきながらも、必死で平静を装って、上司に丁寧に頭を下げて、まだ熱いチャイティーラテを持ったまま外に出ました。

 

爽やかな初夏のお昼前の時間でした。

 

近くに停まっていた屋台トラックのカレーの香りが強烈でした。

 

 

 

 

あれから時は流れて、同じスタバに再び足を踏み入れる日が来て、

 

こともあろうにあのときと同じ席につくことになって、

 

(偶然にも、その席しか空いてなかったんです。)

 

あのときと同じテーブルの柄を見るともなく眺めつつ、

 

あのときと同じ飲みものを味わいつつ、待つこと数分。

 

……拍子抜けするぐらい、なんの感慨も湧いてこない自分がそこにはいました。笑

 

 

 

いや、もっとしみじみするかと思ってたんです。

 

もしくはもっと切なくなったり、つらくなったりするかな、と。

 

でも、ぜんぜん、まったく、一ミリも、私の心はそちらの方向へは動かず、

 

ただただ呑気に「チャイおいしいな~」なんてことを思っているだけ。

 

 

 

「肚が据わったな、自分」と思いました。

 

正確に言えば、「肚が据わっているな、いまの自分」と思ったのでした。

 

 

 

「いま」の自分がどうあるかで、過去は変えられるのだな、と実感しました。

 

いや、過去の出来事は変えられないかもしれません。

 

でも、それに対する解釈は、いくらでも変更がきく。

 

これは希望だな、と思いました。

 

 

 

過去の選択を「正解」にするか「不正解」にするか、

 

その決定権は、ほかでもない、「いま」の自分が握っています。

 

絶対的な「正解」も、絶対的な「不正解」もないんです。

 

それは常に変動していて、久しくとどまりたるためしなし、なんです。

 

で、それを変動させているのは「いま」の自分なんです。

 

 

 

「いま」の自分の状態が良ければ、過去のありとあらゆる出来事は「正解」になります。

 

「いま」の自分の状態が悪ければ、過去のありとあらゆる出来事は「不正解」になります。

 

単純な話です。

 

 

 

スタバでチャイを飲みながら、私、

 

「あのころの自分、グッジョブだ!」と思っていました。

 

「あんたがあのとき、超衝動的にとは言え、あの会社を出る決断をしてくれたから、いま、私はこうして楽しく生きているよ」と。

 

 

 

と、同時に。

 

過去の自分が、

 

「いまの自分、グッジョブだ!」

 

と言って、親指を立てて笑っている姿も、そこには存在していたのでした。

 

「あんたが“いま”を肯定してくれているから、私の決断が“正解”になったよ」と。

 

 

 

実は、こっちの方こそが「正解」なのかもしれませんね。

 

「正解」か「不正解」かの選択権は、いつだって、「いま」の自分に委ねられている。

 

 

 

いまの自分を肯定することさえできたら、

 

いままでの人生を、まるごと肯定できるようになります。

 

こんなにうれしいことって、他にあるかな。

 

 

 

いつだって、

 

「いま」

 

なんですね。

 

 

 

 

 

 

 

素晴らしい「いま」を、「いま」、全力で味わって、そうやってぜんぶを「正解」にして、

 

いつだって「大正解」の「いま」を、張り切って生きていきましょう。