昨日まで「はずかしい小出さん」シリーズを3日連続でお送りしていたわけですが、
もうね、あらためて、「ことば」って大事だな、って思いましたね。
あのシリーズを書いていて、私、つくづく思い知りました。
私には、どうも、「正しいことば」というものが、圧倒的に足りていなかったみたいなんです。
「体験」に浮かれて、自分を「いま」へと向かわせる「ことば」を探求する努力を怠っていたから、
私は、本人まったく無自覚のうちに、「魔境」的なところに落ち込んでしまっていたんですね。
「さとり体験」とか「目覚めの一瞥」とか呼ばれる現象が身のうちに起きた人は、
もう、その瞬間にすべてから解放されて、
同時に、一瞬のうちにこの世の仕組みをすべて理解してしまうのだ、と、
私、そんな風に思い込んでいたんです。
「ほんとう」を理屈を超えたところで知った上でなお、そんな風に思い込んでいたんです。
でも、そんなのはめちゃめちゃ勝手な思い込みに過ぎませんでした。
いや、中にはものすごく頭が良くて、かつバランス感覚に優れている人もいて、
そういう人たちには、そういったことだってあるいは可能なのかもしれませんが、
たいていの人には……たとえば小出遥子さんのような凡人には、
究極の真理を垣間見たところで、そう簡単に、
「いえーい! おれっち、もう、ぜんぶわかっちゃったぜ! ぜんぶクリアだぜ!」
みたいな奇跡が起こるわけもなく……。
いや、むしろ、そんな風に思ってしまったら、その時点ですっかり「勘違い」という名のワナにはまり込んでしまっている証拠で、
もうまったく目も当てられないというか、文字通り救いがないというか……。
そこで、そういった事態を回避する手立てとして、「正しいことば」を知っておくということが、非常に重要になってくるんですね。
確かに、「ほんとう」の世界は、ことばを超えたところに在るんです。
ことばが完全に消え失せたところに、その世界は「在る」。
それは真実です。
でも、その世界を認識するときと、それを日常の中で生きていくときには、ことばはかならず必要になってきます。
たとえば、いざ「それ」を垣間見たところで、自分の中に適切なことばがなかったら、
なにが起こったのかさっぱり理解できず、
せっかくの気づきの機会を完全にスルーしてしまうことでしょう。
もしくは、ただただ圧倒的な感覚に飲み込まれて、
完全に気が狂ってしまうといったことだってありえます。
また、いざ、「ほんとう」の世界から「日常」の世界に戻ってくるときにも、
偉大な先人たちの遺した偉大な智慧=よく整えられたことば、による導きがなければ、
自分が垣間見た「ほんとう」をひとつひとつしっかりと整理することができず、
たとえば「我こそは唯一神なり!」とか「そうだ、宗教開こう!」とか、
そうでなくても「特別な体験をした自分は特別な人間なんだ」とか、
そういう風に、全力で間違った方向=自我を固める方向に突っ走ってしまうようなことが起こります。
人間はとても弱い生きものだから、放っておくと上記のようなことになってしまうんです。
そこで、「ことば」という名の信頼のおけるガイドがぜったいに必要になってくるんですね。
まあ、私の場合は、それらしい「ことば」を中途半端に知っていたものだから、
それ以上「正しいことば」を深く探求する努力もせず、
それゆえに、真理に対する理解もなんとなく中途半端な状態で止まってしまって、
「体験」をこねくりまわすばかりで、
いつまで経っても「いま」を生きはじめることができず、
しかも自分が「魔境」にはまり込んでいるなんて、本人思ってもみないものだから、
そこから抜け出す努力をはじめることもできない……
そんな、どうしょうもない「中途半端地獄」に苦しむことになったわけですが……。
(な、情けない……。)
中途半端っていうのも、また危険なところなんですよね……。
いや~、しかし、返す返すも、恐ろしい話です。
上記は、あくまで私個人のお話ですが、
でも、私と同じ状態になってしまった人って、結構いるんじゃないかな。
だって、世の中に出回っている「スピリチュアル」な知恵を説くようなあれやこれやって、
結構な割合で、
「体験」=「ゴール」
みたいなことを平気で言っていたりするから。
(スピリチュアル産業、そういう意味でめちゃめちゃ危険です。いや、ちゃんとしたものもあるけれど、まじで玉石混交です。甘いことばにはご用心です!)
もしくは、運良く、ちゃんとそれらの「落とし穴」について語っている、信頼のおける「覚者」のことばに触れる機会に恵まれたとしても、
こちら側の焦りと不安と救われたさと思い込みとに阻まれて、そのことばがまったく届かない、ということもありますよね。
人間って、自分にとって都合の悪い情報は、無意識のうちに無視してしまうところがあるから。
とにかく、そういった事情から、
「一回さとってしまえば、完全に救われるんだ!」
と思い込んでしまうこともおおいにありえる、ということで。
で、その思い込みのゆえに、せっかく一瞥を得たにも関わらず、
その後、自分を正しく導いてくれる智慧の数々に触れる機会を、自ら遮断してしまうことだって多々あるんです。
確かに、「体験」は、「いま」を生きはじめる大きなきっかけにはなります。
でも、結局それは「きっかけ」に過ぎない。
そこから先、その体験から得た「理解」をもって、まったくあたらしい努力をはじめなくては意味がないんですね。
その際に、「正しいことば」「ほんとうのことば」は、とてつもなく大きな助けになってくれます。
昨日も書きましたが、
「自灯明」(=よく整えられた自分自身を拠りどころとして歩むこと)
というのは、かならず、
「法灯明」(=よく整えられた法を拠りどころとして歩むこと)
とセットになっているんですよね。
で。
この「よく整えられた法」っていうのは、
まさしく、
お釈迦さまをはじめとする偉大な先人たちの遺した
「正しいことば」
「ほんとうのことば」
つまり、
「自分を“いま”へと向かわせることば」
のことなんじゃないかな、と、私は思うのです。
「ことば」にこだわりすぎる必要はないし、
枝葉の部分に向かってしまったら元も子もないし、
それによって自分勝手なフィクションを固めるようなことをしてしまったら、一巻の終わりなわけですが、
かと言って、そもそも、そこに「ことば」がなかったら、
理解もなくなるし、定着もなくなってしまう。
この世は「ことば」で出来ているので、それを用いないことには、
「ほんとう」を日常で生きていくこともできないんです。
「ことば」で「ほんとう」そのものを知ることはできません。
でも、「ほんとう」の周辺には、かならず「ほんとうのことば」があります。
そこを軽んじてはいけないのですね。
なにが「正しい」ことばなのか、その判断はなかなかむずかしいところではあるけれど、
それが、「伝統的」、「古典的」なものかどうかというのは、ひとつの基準になるとは思います。
もちろん、かならずしもそうとは言えないけれど、長い間残ってきた「ことば」には、それなりの真実を指し示すものが多いように感じます。
それらを適切に人々に提示していく存在として、伝統宗教に期待される役割は、今後さらに大きくなっていくものと思われます。
って、いきなり話が飛んだ上に、私、なんだか偉そうですけど……!
まあ、とにかく、「この世」で生きていく限り、修行にゴールなんかないよ、ってことですね。
「自灯明」で生きていくためには、「法灯明」も、また、同時に生きなきゃいけない。
そこは表裏一体で、ぜったいに切り離すことはできないんです。
「法灯明」と離れたところに存在する、自分勝手な「自灯明」ほどタチの悪いものもないのですが、
というかそれはもはや「自灯明」ですらないのですが、
自分ひとりじゃ、間違った方向に突き進んでしまっていることに、なかなか気づけないのですよね。
だから、ふだんから、なるべく、「正しいことば」「ほんとうのことば」に触れていることが大切なんですね。
何度も言いますが、人間は、「ことば」に導いてもらう必要のある生きものなんです。
そこは決しておろそかにしてはいけないところです。
さもないと……小出遥子さんみたいになっちゃうよ~?(涙)
私も、あらためて気を引き締めます。
「ことば」に助けてもらいつつ、
毎日、いちから勉強していきます。
力を抜きつつ、できるだけ謙虚に……がんばります。