はずかしい小出さん その3

2015年3月25日

はずかしい小出遥子さんのお話、完結編です。

 

 

 

私が「人生最大の気づき」ののちに混乱に陥った、その一番の原因は、

 

個別の意識・人格を持った、「小出遥子」という名前の「かりそめ」の自分と、

 

それが消えうせたときに姿をあらわす、文字通り「すべて」としての「ほんとう」の自分、

 

その二つの区別が、自分の中で明確についていなかったことに尽きると思うのです。

 

ここがぐちゃぐちゃだったから、私は、要らぬ心配や、途方もない勘違いに振り回され続けていたのですね。

 

 

 

いや、ほんとうはその二つの自分は、決して切り離されるものではないのですが、

 

まだまだ自分の「気づき」が定着せず、完全にそこを生ききることができていない段階では、

 

そこは一度、言葉で区別して考えた方が、混乱は少なくなるんじゃないかな、と思います。

 

 

 

私は、一度「ほんとう」を知れば、「小出遥子」は消えてしまうものだと思い込んでいました。

 

目覚め体験が自分を訪れたあかつきには、その瞬間から、「ほんとう」の自分オンリーで生きていけるのだろう、と。

 

でも、そうじゃなかった。

 

「小出遥子」は、その後もばっちり生きていたし、いまでも結構ピンピンしているし、完全に死に切ってしまうことは、たぶん、一生ないでしょう。

 

少なくとも、「小出遥子」の場合はなさそうです。

 

 

 

「ほんとう」の自分と、個別の人格を持った「かりそめ」の自分、

 

その二人は、並行して、“自分”の中に存在します。

 

(というか、「ほんとう」の自分の中から、「かりそめ」の自分が生まれてくるというのが正確なのですが、ここの説明はまた今度……。)

 

その事実を知らなかった……というか、うまく認めることができなかったから、

 

「“ほんとう”を知ったはずなのに、なんで私はいまだにこんなに情けない人間なんだろう」とか、

 

「いまだにどうしようもない私が存在するということは、つまり、あの“体験”は自分の勝手な妄想にすぎなかったんじゃないか」とか、

 

「“体験”があったという証明を手に入れなければ、私、自信持って生きていけないよ」とか、

 

そういう、さまざまな、わけのわからない混乱が生じていたんです。

 

この「混乱」の主体は、「小出遥子」の方の自分、いわば「かりそめ」の方の自分でした。

 

「ほんとう」の方の自分は、しかし、実は、そのようなときでも、どっしりと、一ミリも揺るがずに、「いま」「ここ」に「在り」続けてはいたのです。

 

「無い」という存在の仕方で、「在り」続けてはいたのです。

 

でも、混乱した「小出遥子」の声が大きすぎて、「ほんとう」の自分が「在る」ことを、私自身、見失いかけていたのでした。

 

 

 

さて、話は少し変わりますが、世の中には4種類の人間がいます。

 

1.「ほんとう」を知らずに生きている人

 

2.知識として「ほんとう」の存在を知っているけれど、いまだそれを体感する機会を得ていない人

 

3.理屈を超えて「ほんとう」を体感する縁には恵まれたけれど、その理解を生きるには至っていない人

 

4.「ほんとう」を知って、完全にそこから生きている人

 

随分と乱暴な分け方ですが、どうかお許しください。

 

 

 

で。

 

この「3」のタイプが、割と厄介なんですね。

 

「3」の人が、一番アホになりやすい。つまり、ワナにはまりやすい。

 

自身の経験から言っています。これ、ほんと、間違いないです……。

 

 

 

 

『きゃー! 大変! 私、どうやら、「ほんとう」を“体験”しちゃったみたいなんです……!』

 

うんうん、それはよかったね。解放感、すごいでしょう。

 

でもね、だからと言って、そのままイコールで、

 

『はい、終わり! はい、ゴール! はい、おつかれさま! お~め~で~と~~~!』

 

って、祝福の宴を開くわけにはいかないのよね。

 

 

 

「わかっちゃった人」は、今度は「その理解を生きる」ことをはじめなきゃいけないんです。

 

つまりは、日常生活の中で「いまを生きる」ということですね。

 

それをしなかったらなんの意味もないどころか、

 

「体験」それ自体にこだわることによって、

 

かえって自分自身を、ちいさなちいさな檻に閉じ込めてしまうことになりかねないんです。

 

こういう状態を、禅の言葉で「魔境」というのでしょう。

 

 

 

私、本当に危ないところでした。

 

いつの間にやら「魔境」に入り込んでいて、

 

もう少しで、帰ってこられなくなるところだったんです。

 

無意識のうちに、とんだ勘違いを働いていた模様です。

 

本当に恐ろしい話です。冷や汗タラタラです……。

 

 

 

「ほんとう」は「ひとつ」なので、そこにレベルはありません。

 

Aさんが見た「ほんとう」と、Bさんが知った「ほんとう」、Cさんが感じた「ほんとう」……

 

そのそれぞれに「差」は一切ないんです。そんなものは生じようがない。

 

Aさんの方が、Bさん、Cさんに比べて、より「ほんとう」を知っている、なんてことはあり得なくて。

 

でも。

 

その「ほんとう」を、「日常」の中で生きようとする際に、「レベルの差」とでも呼ぶべきものが生まれてしまうのですね。

 

 

 

はっきり言ってしまいます。

 

自分自身に向けて、ここではっきり言ってしまいます。

 

「体験」があったとかなかったとか、そんなことはどうだっていいんです。

 

いや、確かに、「体験」は、めちゃめちゃ大きなヒントにはなります。

 

戻るべき場所を自分自身にセットする、そのためのインパクトとして、あれほどの大きさのものはないような気がします。

 

でも、それと「目覚めて生きる」こととはまったくの別問題です。

 

 

 

大事なのは「いま」だけで、

 

この「いま」を、ちゃんと「いま」として生きられているか、

 

そこだけなんです。

 

 

 

極限まで単純化して言ってしまえば、

 

世の中には、(体験として)「さとった人」と「さとっていない人」がいるわけではなくて、

 

「いまを生きている人」と「いまを生きていない人」がいるだけなんです。

 

「いま目覚めている人」と「いま目覚めていない人」がいるだけ、と言ってもいい。

 

 

 

もう一回言います。

 

大事なのは「いま」だけなんです。

 

唯一の「ほんとう」である「いま」をおろそかにして、「幻想」の部分であーだこーだ理屈をこねくりまわしているうちは、

 

まだまだぜんぜん修行が足りてない、

 

「あんたなにもわかっちゃいないよ」ということですね。

 

「さとり」を持ち歩いているやつは、とんでもないアホです。

 

さっさとそんな「さとり」なんか捨てて、「いま」目覚めて生きなさいってお話です。

 

 

 

「自灯明」は、かならず「法灯明」とセットでなければならないのですね。

 

本当に、本当に、実感しました。そして、反省しました。

 

私には、まだまだ、自分自身の碇として、よく整えられた“法”が必要そうです。

 

 

 

 

 

……このシリーズを書くの、本当にはずかしかったんですけど、

 

(これもまた「小出遥子」の感情ですけれどね。)

 

なんだか、いま、どうしてもこれを書かなきゃいけない気がしたし、

 

それに、私と同じワナに落ちそうになっている人、実際に落ちちゃった人、

 

「ほんとう」を探求しはじめたはいいけれど、

 

とにかくいろんなことの区別がつかなくて混乱している人たちに、

 

なにかお役に立てることがあればいいな、と思って書きました。

 

 

 

 

ほんと、日々是修行ですね。

 

精進します。まじで。