はずかしい小出さん その2

2015年3月24日

「特別な人間なんかいなかった!」ということに気がついたという「特別な人間である私」の証を求めて、随分と長い間さまよい続けていた小出遥子さんの独白、その2です。

 

いや、これは本当に、最高に(最低に?)はずかしいお話です。

 

本当は隠しておきたかった……でも、昨日「その1」をアップしちゃったから、仕方ない、最後まで責任持って書きます。笑

 

 

 

私の場合、「究極の“ほんとう”」らしきものを見たからと言って、

 

「我こそは唯一神なり!」とか、

 

「そうだ、宗教開こう。」とか、

 

そっちの方向には進まなかったのですが、

 

(だって「特別な人間なんかいなかった」という実感だけはリアルに残っていたから……。)

 

でも、「体験」にこだわる心だけは、どうしても手放せませんでした。

 

自分という人間は、確かにあの晩、「究極の“ほんとう”」をこの目で見たのだ!

 

その証さえ手に入れば、この「小出遥子」は、もっともっと自信を持って、力強く生きていけるだろう、

 

もっと言えば、人生が完全に変わってしまうだろう、

 

そんな風に思い込んでいたのです。

 

「ほんとう」を体感したのちでも、その勝手な思い込みは決して消えなかったのです。

 

 

 

何度も言いますが、世界のほんとうの姿、自分のほんとうの姿というのは、

 

個別の意識を持った人格、たとえば「小出遥子」という名前を持った人格、

 

それが綺麗さっぱり消え失せたときにはじめて姿をあらわすものです。

 

なので、そこに、“それ”を「見る」人間は存在しません。

 

“それ”はただただ「在る」だけで、私たちは、決して“それ”を「体験」することなんかできないのです。

 

 

 

なので、「小出遥子」が“それ”を見た証なんか、この世界のどこを探したって見つかりっこないのですが、

 

私という人間は、「小出遥子」という存在に対する自信のなさから、それをいつまでもいつまでも追い求め続けていたのですね。

 

 

 

「自分なんかいなかった!」と気づいた自分が、その事実を見た自分という存在を証明するなにかを求めて、必死の形相でそこら中を探し回っていたって、

 

もう、客観的に見たら「愚かしいにもほどがある!!!」ってお話なんですが……。

 

 

 

この「自信のなさ」ってやつは本当に厄介なものでね……。

 

私、そのせいで、もう少しで、すべてを台無しにするところでした。

 

いや、あの「体験」によってもたらされた気づきは、ずーっと自分の中に残っているんです。

 

「自分なんかいない」し、それゆえに「すべてが自分」だし、

 

「未来も過去も幻想」だし、「いまはいまだけで、いままでもこれからもずーっといま」だし、

 

「人は死なない」し、「そもそも生まれてもいない」し、

 

もう、とにかく、「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ幻想!」なのだと……

 

これらの「ほんとう」は、誰がなんと言おうと「ほんとう」だし、

 

そこだけはぜったいにぜったいにぜーったいに譲れないと……

 

そう、思い続けてはいました。

 

実際、それはずっとずっと「在る」んです。

 

でも、「小出遥子」がそれを見た、それを知った、ということと、それが「在る」ということは、

 

実はまったく関係のないことだったんです。

 

それなのに、私は、それを見た、それを知った「小出遥子」にこだわり続けていたんです。

 

 

 

いくら「ほんとう」を知ったからと言って、「日常」を生きる上では、私は、「小出遥子」をやらなきゃいけないんですね。

 

この「小出遥子」は、いままでずっと、この「小出遥子」だけを自分だと思って生きてきました。

 

まさか「小出遥子」がいなくなったところに広がる、超巨大な「自分」こそが“ほんとうの自分”だなんて、思いもよらずに生きてきたんです。

 

あの「体験」によって、「自分」や「私」という言葉の差す範囲が広がってしまったとは言え、

 

それまでずーっとそうやって生きてきたものを、急に180度転換することはできません。

 

その後も、「小出遥子」こそが唯一の自分である、と、どこかで頑なに思い込んでいる自分は、結局、相も変わらず存在していました。

 

 

 

この「小出遥子」ってのが、とにかくまあ恐がりなやつでね……。

 

ビビリな上に自信がなくて、いっつも自分を疑ってばかりというキャラクターで。

 

それは「究極の“ほんとう”」を知ったあとでも変わらなくて。

 

いや、もちろん、少しずつ変化はあったんです。

 

でも、それはあまりにもちいさく、ゆっくりとした変化だったから、自分ではなかなか気づけなかったんですね。

 

 

 

その上、いままで個人的に熱心に勉強してきた(笑)「すべてを解放してくれる“悟り”」やら「光り輝く“覚者”」やらのイメージが頭の中にばっちり残っているものだから、

 

「おかしい。どうも自分はそのようにはなっていない……」

 

「あの“体験”が本当だとしたら、私の人生、もっと劇的に変わっているはずだ……」

 

なんてことを考えはじめ、

 

「やっぱり私に“体験”が訪れたなんていうのは、自分の勝手な妄想だったのかもしれない……」

 

なんていう疑いを持ち、

 

でも、あの「体験」によってもたらされた気づきだけは、超リアルなものとして自分の中に残っていて、

 

そこだけはぜったいにゆずれないものだから、

 

「これは一体どういうことなんだろう……」

 

「わけがわからない……」

 

と、さらに混乱を深めてしまう……

 

そんなことを繰り返し続けていました。

 

結果、

 

「あの素晴らしい“体験”がフィクションだったとは思いたくない……!」

 

「あの“体験”があったという証さえ手に入れば……!」

 

と、まったく見当違いな方向に突っ走るようになってしまったんです。

 

それらすべて、「小出遥子」の持つ、根強い自己不信感の為せる業でした。

 

 

 

こうなってしまった原因は、私の中で、

 

個別の意識、人格を持った、「小出遥子」という名前の自分と、

 

それが消えうせたときに姿をあらわす、文字通り「すべて」としての自分、

 

その二つの言葉の区別が明確についていなかったこと、

 

そこに集約されるような気がします。

 

 

 

その3に続きます。