はずかしい小出さん その1

2015年3月23日

今日は最高にはずかしい自分自身のお話を書きます。

 

 

 

私は、過去何度も、このブログなどで、2013年の梅雨時のある晩の出来事を伝えてきました。

 

私がはじめて「私」の正体を見たときのことです。

 

それはふいにやってきました。

 

私が「小出遥子」だと思っていたものなど、ほんとうはどこにも存在せず、

 

見るもの、聴くもの、触れるもの、嗅ぐもの、味わうもの……それらのすべてが、そのすべてこそが、「私」だったのです。

 

そして、「小出遥子」の消滅とともに、「時間」や「空間」という概念も消え去りました。

 

未来も過去も存在せず、あの場所や、それに対してのこの場所も存在せず、

 

すべては「いま」「ここ」にありました。

 

と、同時に、「人は死なない」という事実をも、理屈を超えて理解しました。

 

「人は死なない。そもそも生まれてもいないのだから」と。

 

これらのすべては、私の人生において、最も大きな驚きをもたらしてくれました。

 

それまでの「小出遥子」としての人生があまりにも窮屈だったがために、

 

その気づきを得たときの解放感が、尋常でないものとして感じられたのです。

 

ギャップが、その体験を、「特別」なものとして彩りました。

 

 

 

そう、私は、その体験を、どうしようもなく「特別」なものとして見ていたのです。

 

時間なんか存在しない、いつだって「いま」だし、これからも「いま」だったし、これから先もずーっと「いま」なんだ!

 

……なんてことを言いながら、

 

私自身、「いま」から離れて、「あの晩」の「あの時間」の体験を、幾度も幾度も反芻しては、

 

「あれは素晴らしい気づきだった。特別な時間だった」

 

……なんてことを、自分自身に繰り返し繰り返し言い聞かせるようにしていたのです。

 

“「いま」しかないことを知った”という「過去」の出来事に、どうしようもなくしがみついていたのです。

 

 

 

私は、焦っていたし、不安だったのです。

 

あの体験が、ぜんぶ、小出遥子の妄想だったとしたら……?

 

そう考えると、たまらなく怖かったのです。

 

 

 

「体験」による高揚感は、すでに過ぎ去っていました。

 

あとにはベタな「日常」が残っていました。

 

自分もあなたも彼も彼女もあの人もこの人もいない。ぜんぶ「自分」。

 

過去も未来もない。ぜんぶ「いま」。

 

その感覚は、私という人間の底の方にずーっと残っていました。

 

それが「ほんとう」だということは、誰がどう言おうとほんとうなのだと、そこだけははっきりしていました。

 

 

 

でも、この地で生きていくためには、「小出遥子」という人格を使っていかなくてはなりません。

 

体験後も、「小出遥子」は相も変わらず、ビビリで、せせこましくて、怠け者で、わがままで、お金のことが苦手で、自分に対する自信がぜんぜんなくて……

 

はっきり言って、以前となにも変わりませんでした。

 

 

 

少なからず、がっかりしました。

 

「体験」したあかつきには、「小出遥子」は、素晴らしい人間として生まれ変われるだろう、と思い込んでいたんです。

 

完全に、あてが外れた気がしました。

 

 

 

そのうちに、私は、私を疑いはじめました。

 

「体験」が私を訪れた、という、その事実を疑いはじめました。

 

あの晩に知ったことは、ぜったいにぜったいに「ほんとう」のことだ。

 

だけど、あれを小出遥子という名前の人間が「知った」のだとは、到底思えない……。

 

結局、またいつもの妄想だったんじゃないか???

 

そんな不安感にとりつかれるようになってしまったのです。

 

 

 

私は、私の「体験」のしるしを求めるようになりました。

 

自分以外の誰かに、「あなたがあの晩に“ほんとう”の世界を見たのは事実だよ」と言って欲しかったんです。

 

「覚者」と呼ばれる人の遺したことばに触れてみたり、それ系の本を読んでみたりして、

 

そこに、私が知ったあの真実と同じようなことが書いてあると、ほっと胸をなでおろしたりしていました。

 

ああ、やっぱり、私が見た「ほんとう」は、ほんとうなのだ……と。

 

でも、いくらそれを繰り返しても、私という人間、小出遥子という人間「が」それを知ったという証拠は、決して掴むことができませんでした。

 

当然です。だって、その「気づき」の瞬間に、「小出遥子」は完全に消えていたのだから。

 

それゆえ、「小出遥子」に、しるしなんかが残るはずはないのです。

 

でも、その当たり前の事実すらかすんでしまうほどに、私は焦っていたし、恐がっていたのです。

 

 

 

結局、私は、自分を「特別な体験」をした、「特別な人間」なのだと思いたかったんですね。

 

「特別な人間なんていない」ということに気づいた自分は特別な人間なのだ、と。

 

口ではいくら否定しても、実際、「特別な人間」であることのしるしを求めて右往左往していたのだから、もうなに言えません。

 

完全に、ワナにはまっていました。

 

 

 

……と、最高にはずかしいお話を暴露したところでその2に続きます。