今日は最高にはずかしい自分自身のお話を書きます。
私は、過去何度も、このブログなどで、2013年の梅雨時のある晩の出来事を伝えてきました。
私がはじめて「私」の正体を見たときのことです。
それはふいにやってきました。
私が「小出遥子」だと思っていたものなど、ほんとうはどこにも存在せず、
見るもの、聴くもの、触れるもの、嗅ぐもの、味わうもの……それらのすべてが、そのすべてこそが、「私」だったのです。
そして、「小出遥子」の消滅とともに、「時間」や「空間」という概念も消え去りました。
未来も過去も存在せず、あの場所や、それに対してのこの場所も存在せず、
すべては「いま」「ここ」にありました。
と、同時に、「人は死なない」という事実をも、理屈を超えて理解しました。
「人は死なない。そもそも生まれてもいないのだから」と。
これらのすべては、私の人生において、最も大きな驚きをもたらしてくれました。
それまでの「小出遥子」としての人生があまりにも窮屈だったがために、
その気づきを得たときの解放感が、尋常でないものとして感じられたのです。
ギャップが、その体験を、「特別」なものとして彩りました。
そう、私は、その体験を、どうしようもなく「特別」なものとして見ていたのです。
時間なんか存在しない、いつだって「いま」だし、これからも「いま」だったし、これから先もずーっと「いま」なんだ!
……なんてことを言いながら、
私自身、「いま」から離れて、「あの晩」の「あの時間」の体験を、幾度も幾度も反芻しては、
「あれは素晴らしい気づきだった。特別な時間だった」
……なんてことを、自分自身に繰り返し繰り返し言い聞かせるようにしていたのです。
“「いま」しかないことを知った”という「過去」の出来事に、どうしようもなくしがみついていたのです。
私は、焦っていたし、不安だったのです。
あの体験が、ぜんぶ、小出遥子の妄想だったとしたら……?
そう考えると、たまらなく怖かったのです。
「体験」による高揚感は、すでに過ぎ去っていました。
あとにはベタな「日常」が残っていました。
自分もあなたも彼も彼女もあの人もこの人もいない。ぜんぶ「自分」。
過去も未来もない。ぜんぶ「いま」。
その感覚は、私という人間の底の方にずーっと残っていました。
それが「ほんとう」だということは、誰がどう言おうとほんとうなのだと、そこだけははっきりしていました。
でも、この地で生きていくためには、「小出遥子」という人格を使っていかなくてはなりません。
体験後も、「小出遥子」は相も変わらず、ビビリで、せせこましくて、怠け者で、わがままで、お金のことが苦手で、自分に対する自信がぜんぜんなくて……
はっきり言って、以前となにも変わりませんでした。
少なからず、がっかりしました。
「体験」したあかつきには、「小出遥子」は、素晴らしい人間として生まれ変われるだろう、と思い込んでいたんです。
完全に、あてが外れた気がしました。
そのうちに、私は、私を疑いはじめました。
「体験」が私を訪れた、という、その事実を疑いはじめました。
あの晩に知ったことは、ぜったいにぜったいに「ほんとう」のことだ。
だけど、あれを小出遥子という名前の人間が「知った」のだとは、到底思えない……。
結局、またいつもの妄想だったんじゃないか???
そんな不安感にとりつかれるようになってしまったのです。
私は、私の「体験」のしるしを求めるようになりました。
自分以外の誰かに、「あなたがあの晩に“ほんとう”の世界を見たのは事実だよ」と言って欲しかったんです。
「覚者」と呼ばれる人の遺したことばに触れてみたり、それ系の本を読んでみたりして、
そこに、私が知ったあの真実と同じようなことが書いてあると、ほっと胸をなでおろしたりしていました。
ああ、やっぱり、私が見た「ほんとう」は、ほんとうなのだ……と。
でも、いくらそれを繰り返しても、私という人間、小出遥子という人間「が」それを知ったという証拠は、決して掴むことができませんでした。
当然です。だって、その「気づき」の瞬間に、「小出遥子」は完全に消えていたのだから。
それゆえ、「小出遥子」に、しるしなんかが残るはずはないのです。
でも、その当たり前の事実すらかすんでしまうほどに、私は焦っていたし、恐がっていたのです。
結局、私は、自分を「特別な体験」をした、「特別な人間」なのだと思いたかったんですね。
「特別な人間なんていない」ということに気づいた自分は特別な人間なのだ、と。
口ではいくら否定しても、実際、「特別な人間」であることのしるしを求めて右往左往していたのだから、もうなに言えません。
完全に、ワナにはまっていました。
……と、最高にはずかしいお話を暴露したところでその2に続きます。