先日、私がとても信頼しているある年上の友人とお話をしました。
そこで出たのが、
「覚悟というものは、層構造になっている」
というお話。
なにかを成そうと決意して、覚悟を固めて、勇気を出してあたらしい世界に「えいや!」と飛び込み、
そこで、慣れない環境にジタバタしつつも、いまの自分にやれることを精一杯やっていき、
少しずつ、少しずつ、自分の意図した何かがかたちをとってあらわれはじめたころ……
そこにはまた、なにか、「覚悟」が問われるような状況が現れ出てくる。
そこで「どどどどどうしよう……!?」と慌てているうちに、
次第に肚が決まってきて、
あるとき、「やるしかない!」という決意が降ってきて、
少しずつ少しずつ覚悟を固め、
勇気を出して一歩を踏み出し、
またあたらしい世界に飛び込んでいく……
その繰り返しだよね、と。
「覚悟」っていうのは、一度だけすればそれでOKなわけじゃない。
ひとつの覚悟は、かならずあらたしい覚悟を連れてくる。
でも、自分さえ逃げ腰になっていなければ、
「よし! やってやろう!」と肚を決めて一歩踏み出すごとに、
そこには、かならず、思ってもみないような素晴らしい光景が開けている。
それを見たいのなら、やっていくしかないのだよね、と。
ほんとうにそうだな、と思いました。
覚悟が問われ続ける状況っていうのは、見ようによってはしんどいようにも感じられます。
気が休まる暇がないじゃん、と。
でも、実はそんなことはないんです。
だって、「覚悟」の層が重なれば重なるほどに、
それに対応していく「自分」というものも変わっていくからです。
いや、「自分」が変わるというか、
「自分」という言葉が差すもの自体が変わるというか、
なんというか、上に行けば行くほど、「自分」が「自分」じゃなくなっていくというか、
そこにあるのは、個人だけの覚悟じゃなくなっていくというか……
まあ、わかりやすく言えば、だんだんとそこにある個人性、
私の場合で言えば「小出遥子性」が薄れていくということです。
「覚悟を決める」その主語が、「肚を括って行動していく」ごとに、
「小出遥子」から、そこを遥かに超えていくような、「果てしなく巨大ななにか」へと
少しずつ少しずつ移行していくということです。
その「なにか」っていうのは、
たとえば「自然」と呼ばれるものだったり、「世界」と呼ばれるものだったり、「宇宙」と呼ばれるものだったり、
場合によっては「愛」と呼ばれるものだったり、
あとは、そうだな、「神」と呼ばれるものだったり、「仏」と呼ばれるものだったり……するのですが、
それは実は「宗教」というものとは関係なくて、
ただただすべての存在をそれそのものとして成り立たせているなにか、
この、肉体を持っている自分と、一切の断絶なく、ただただそこに「在る」なにか、
個人としての意識で生きているときには影を潜めているけれど、いつだってかならずそこに「在る」、
私たちが普段すっかり忘れてしまっている「ほんとうの自分」のことです。
「ほんとうの自分」とつながった状態でなにかを成すとき、
そこに余分なエネルギーは一切かかりません。
すべてが「そのように」運ばれていきます。
もちろん、この地でなにかをするときには、個人の肉体が必要なので、そういう意味での疲れは発生しますが、
そこに向かう気力、体力は、かならず与えられるようになっているんです。
それはもはや、個人だけのものではなく、宇宙や自然や神仏と呼ばれるなにかの願いとなっているからです。
そうならない場合は、それは、その「なにか」が望んでいないことなのだから、
少し考え直した方が良いよ、というサインなのかもしれません。
私の数少ない経験上からのお話ですが、上記のようなことは、間違いがないことなんじゃないかな、と思います。
なんだか神秘的な物言いになってしまいましたが、ここ最近、それを強く感じる場面が多くなってきたので書いてみました。
今日の東京は、春らしく、霞ががった白っぽい青空が広がっています。
今日はあたたかくなるのかな。
うつくしい日を。