私たちが「現実」だと思ってること、実はぜんぶ「夢」なのかもしれないよ???
……みたいなことを書いた記事って、ぶっちゃけ、かなり評判悪かったりするんですよね。笑
評判って言っても「いいね!」の数でしか測れないのですが(む、むなしい……)
まあ、そうだな、たとえば、「早起き」とか、「禁酒」とか、「断食」とか、
そういう、かなりフィジカルな、「現実」のことを書いているっぽい記事の方が断然ウケが良かったりする……
これはいったいなにごとか、と、ずっとネチネチ考えていました。笑
いや、無理もないんです。
そりゃあ、この目で見て、この耳で聴いて、この手で触れるものを「現実」だと思ってしまうのは当然で、
この、あまりにも確かに見える「現実」が、ほんとうのところ「夢」に他ならないだなんて、
こんなことを言う小出の方がヤバいんじゃないの? 小出の方こそ夢見てんじゃないの!? って、
そう思われても仕方がないんです。
私自身、ずっと、この「現実」だけを「現実」だと思っていました。
いや、正確に言えば、「そう思おうとしていた」というところなんですけれど。
まあ、それが「常識」とされているし、そっちに身を馴染ませておいた方が、ストレスはなさそうだな……
そんな風に思っちゃったんですね、いつかの小出さんは。
でも……いつしか、私、確かなものを掴みたい、ほんとうのことを知りたいと思うようになっていったんですね。
すべてがうつろいゆくこの世の中に、それを構成している「現実」それ自体に「ほんとう」があるとされていることに、疑いを感じるようになっていったんです。
「現実」を「現実」として生きることに、少しずつ息苦しさを覚えていったんです。
でも、「常識」の圧力は凄まじくて、私は毎度それに屈服していました。
「みんながそう言っているんだから、これは正しいことなんだ」。
「目の前の“現実”を“ほんとう”と思えない自分の方が間違っているんだ」と。
そうして、ため息をつきつつ、無理やり「現実」という型に自分をぎゅうぎゅう押し込めるという作業を続けていました。
その繰り返しでした。
はっきり言って、生きた心地がしませんでした。
そんなあるとき、なんの前触れもなく、世界がひっくり返ってしまった。
「あ……!」という感じで、いきなりわかってしまったんです。
変わっていくものの背後にあって、変わっていくものを変わっていくものとして成り立たせている「なにか」は、決して変わらないのだと――
それこそが、唯一絶対不変の「ほんとう」なのだと――
そして、その「なにか」こそが、私たちの「ほんとう」の姿なのだと――
それに気づいたときの安心感は、かつて味わったことのないものでした。
視野が急激に広がっていきました。
私は、世界そのものでした。
行く河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつむすびて久しくとどまりたるためしなし
鴨長明『方丈記』の冒頭部分です。
水は常に「もとの水にあらず」で、河の上に浮かぶ泡も「かつ消えかつむすびて」、一瞬たりともとどまるということはない。
でも。
うつりゆく一滴の水や、ひとつぶの泡を、そういうものとして存在させている「河」自体は、ずっとずっと変わらずにそこにあるんです。
私は、そのときまでずっと、一滴の水や、ひとつぶの泡こそを「私」だと思って生きてきました。
いつだって足元が覚束なかった。いつだって心もとなかった。
でも、それは当然の話でした。
だって、私は「私」の正体を見誤っていたのだから。
「私」というものの正体は、絶えず流れる一滴の水や、生まれては消えゆくひとつぶの泡なんかじゃなくて、
それらをそれらとして存在させている、大きな大きな「河」そのものだったんです。
それに気づいたからと言って、自分は偉いとか、自分はすごいとか、自分は特別な人間だとか、
そんな風には一ミリも思っていません。
その「自分」という存在の前提からして変わってしまったのだから、どうしてそんな風に思えるでしょう。
ただ、この気づきを共有したいという思いはずっとあって。
この思いは、一滴の水、ひとつぶの泡としての「小出遥子」のものなのか、
河としての「自分」のものなのか、
そこははっきり言ってよくわかりません。
でも、この「思い」が私を引っ張って、いろんな行動へと駆り立てていることだけは事実です。
この世界には、「現実」という名の「夢」を楽しむことができる人たちだってたくさんいます。
そういう人たちはそれでいいんです。
そこに苦しみがないのなら、それでなんの問題もないんです。
でも、それがどうしても苦しいのなら、視点を変えることもできるんだよ、と。
同じものを見つめていても、その視点を変えさえすれば、
「自分」の正体をほんとうの意味で掴むことさえできれば、
つまり、「夢」から覚めて、その地点から生きることさえできれば、
その「苦しみ」は、消えてなくなってしまうかもしれないよ、と。
「ほんとう」を書いた記事の評判が悪いのは、まだ夢を見ていたいよ、という気持ちのあらわれにほかならないのでしょうね。
(いや、もちろん、私の表現が未熟すぎて、そのせいで、「なに言ってるかさっぱりわからん」な状況を生んでしまっているのは確かなのですが……。)
気持ち良さそうに眠っている人を起こすつもりは、私にはないです。
「気持ち良さそうだなあ。楽しそうだなあ。いいなあ」と微笑ましく思うだけ。
そういう人たちは、どうぞ、思いっきり、私の言っていることを無視してください。笑
でも、どうもこうにも楽しくなさそうな人、
悪夢にうなされているっぽい人、
そして、うっすらと目を開けかけているけれども、布団から離れる決意ができていないような人、
そういう人たちにこそ、
つまり、かつての自分自身にこそ、
この「ほんとう」が、届くといいな、と思っています。
しつこく言おう。笑
ぜんぶ夢なのよ!
届いてくれるといいな。