自分というものの本体は、私の場合で言えば「小出遥子」のことでは、決してないんです。
「小出遥子」のこころとからだを使って生きている「なにか」こそが、自分の本体なんです。
「小出遥子」は、いわば着ぐるみみたいなものです。
着ぐるみの「中の人」こそが、本体です。
で、面白いのが、その「中の人」っていうのはたったのひとり。どんな着ぐるみをまとっていたとしても、それはまったき同一人物だってことで。
(いや、ほんとうは「人物」ですらないのですが、便宜上ね。)
ふなっしーの中の人と、ひこにゃんの中の人と、ミッキーマウスの中の人が、実は同一人物だとしたら?
(この人物は時空を超えた存在なので、船橋でも、彦根でも、舞浜でも、アメリカでも、アフリカでも、昨日でも、今日でも、明日でも、100年前でも、100年後でも、同時に存在できます。)
それと同じことが人間でも起きているんです。
小出遥子の中の人と、角の豆腐屋のおじいちゃんの中の人と、レディ・ガガの中の人が、実は同一人物だとしたら?
そしてそれが真実なのだとしたら?
この「中の人」こそが、「神」や「仏」と呼ばれる存在なんです。
つまり、神さまの正体は、究極的には「自分」にほかならないということ。
でも、繰り返しますが、この神さまの正体である「自分」っていうのは、個別のこころとからだを持った「小出遥子」のような存在のことでは決してないんです。
「小出遥子」やそれ以外の人々のこころとからだを使って生きている、世界各地にまったく同時に存在している、形のない「ほんとうの自分」のことです。
それは、ただ、在るんです。
そうとしか言いようがない。
個別の名前を持った「おれ」や「わたし」こそを神さまだと名乗る人がいたら、一刻も早く離れた方がいいです。
だってそんなのは嘘っぱちだから。
特別な人なんかこの世には存在しないし、ある意味で、全員がまったく平等に特別なのだから。
最近こういうようなことばっかり書いていますが(そして「いいね!」を激減させているのですが。笑)ここさえ理解できればオールオッケーなような気がするので、しつこいですが今日も書きました。
明日も書くかもしれません。笑
お付き合いよろしくなっしー。