監督・演出・主演・観客、すべて「自分」

2015年3月10日

先日、【恋の成就と春の訪れ】という記事を書きましたが、そこに登場している友人から手紙が届きました。

 

とてもとてもうつくしい手紙だったので、一部抜粋しますね。

 

 

 

 

 

小出さん、ブログ読んだよ。ありがとう。あそこに登場できることは、とても光栄です。小出さんの日々に、わたしは確かに存在している。とてもうれしいです。そしてとても不思議な気持ちです。

 

小出さん、いつかのブログで、人生は、監督も演出も主演も観客さえも(!)、すべて自分なのだと言っていたよね。わたし、今回のブログを読んでいたら、そのことがすとーんとお腹の中に入ってきたんだ。

 

わたしの物語。わたしが演じた物語を、わたしは見つめていた。キャストも構成も衣装もBGMも、わたしが決めて、わたしがやっていた。

 

(中略)

 

この物語は、静かに幕が下りていきました。

 

小出さん、見届けてくれて、ほんとうにありがとう。

 

 

 

 

 

手紙の中にある「いつかのブログ」っていうのはコレですね。

 

【人生を創る。】 http://koideyoko.com/archives/1762

 

 

 

監督も演出も主演も観客さえもすべて自分。それが人生という名の物語――

 

これ、ほんとうにそう思っています。

 

 

 

ここでのポイントは、「観客さえも自分」というところですよね。

 

でもね、この、私の物語を見つめている「自分」っていうのは、決して個別の意識を持った人間……

 

私の場合で言えば、「小出遥子」のことじゃないんです。

 

いや、もちろん、視点は「小出遥子」の両目に固定されています。

 

でも、その全体を物語として見つめている主体は、実は「小出遥子」ではない。

 

「小出遥子」の目を使うしかない、「なにか」なんです。

 

そして、その「なにか」こそが、「ほんとうの自分」なんです。

 

 

 

そして、その「ほんとうの自分」っていうのは、実はたった「ひとり」……というか、「ひとつ」、なんですね。

 

つまり、

 

小出遥子にとっての「ほんとうの自分」と、

 

手紙をくれた友人にとっての「ほんとうの自分」と、

 

秋田の吉田さんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

三重の鈴木さんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

広島の内野さんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

中国の王さんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

ロシアのモロゾフさんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

ドイツのミュラーさんにとっての「ほんとうの自分」と、

 

アフリカのジャクソンさんにとっての「ほんとうの自分」は、

 

結局、

 

ぜんぶ、

 

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜ~~~んぶ!

 

まごうかたなく!

 

同一人物!!!

 

ということです。

 

(いや、ほんとうは「人物」ではないのですが、便宜上。)

 

 

 

このたった「ひとり」……というか「ひとつ」の「ほんとうの自分」は、

 

まったく同時に、まったく同一の、はかり知れないほどの愛情をもって、

 

この世のすべての存在の視点から切り取られた、個別の「生」という名の物語を見つめているのです。

 

 

 

私は、この「ほんとうの自分」こそを、「神」や「仏」と呼ぶのだと思っています。

 

 

 

私たちは、間違いなく、見守られています。

 

なにをしているときも、なにを思っているときも、どんな瞬間も、いまこの瞬間も、

 

確実に、見守られ、見届けられています。

 

どんな存在でも、この世に存在している限り、決してその「目」からこぼれることはありません。

 

だって、存在それ自体が、「それ」そのものなのだから。

 

 

 

監督も演出も主演も観客さえもすべて自分。それが人生という名の物語。

 

そのことは、ふだんは忘れて生活しています。

 

でも、それを忘れていようが、思い出そうが、私たちがいつだって見守られ、見届けられている存在であることに変わりはありません。

 

安心して、人生という名の物語を遊んでいていいんです。

 

 

 

 

 

 

 

A子さん。

 

お手紙、とてもうれしかった。

 

何度も何度も読み返しました。

 

お返事、書くね。

 

ありがとう。