一年半ほど前から、毎月、新月と満月の日に神社に行って神さまにご挨拶をするようになりました。
だいたい決まった神社だけど、とくにそこにこだわっているわけでもなく、自分が気持ちいいなと思うところだったら、割とどこにでも入って手を合わせます。
まあ、単なる趣味ですね(笑)
特別な願い事があっての行動、というわけでもない。
ただ、なにも考えずに手を合わせる時間が気持ちいいからやっているだけです。
新月と満月っていうのも、なんとなく区切りになりそうだからその日に定めているだけで、とくに深い意味はありません。
神社に行くと、とりあえず神殿、拝殿の前で手を合わせてはいますが、私は、実は、別に「そこ」だけに神さまがいるわけじゃないと思っています。
「そこ」に行かなきゃ神さまに会えない、なんてことがあるわけがなくて。
神さまはそこら中にいます。
自分が行く先々にいます。
というか、自分が「いる」場所すべてにいます。
これは、「八百万」的な、個別の神さまがそれぞれの場所やものに宿っているとか、そういうお話とはまた違って……
なんだろうな。
神さまと呼ばれるエネルギーは、ぜんぶ、すでに、自分の中に「ある」んですね。
だから、自分がつながろうと思えば、いつだって、どこでだって、神さまとつながれるんです。
じゃあ、なんで「神社」っていうものがあるかというと、やっぱりあれは装置なんですよね。
自分の中の「神さま」とつながりやすくするための装置。
よく整えられて、空気が澄み渡ったところで、ただただ頭を空っぽにして手を合わせる。
そうすると、自分の中にすでに「ある」“なんらかの力”に気づきやすくなる。
言ってしまえば、ただそれだけのお話です。
今回は神社を例にとりましたが、お寺も同じですよね。
お寺に行かなきゃ仏さまに会えない、なんてそんなおバカなこと(おっと失礼!)があるわけがなくて。
あれも、結局は、自分の中に「ある」“なんらかの力”と出会うための装置なのだと思っています。
神さまや仏さまは「そこ」にはいない。
神さまや仏さまは、いつだって「ここ」にいます。
神社やお寺に限らず、この世に存在するものは、結局、すべて「自分」と出会うための装置なんじゃないかな。
ぜんぶ、自分の中に「ある」んです。
私たちは、みんな、「自分」の正体を知るためだけに生まれてきたのではないかな……なんてことも思います。
月曜日。今週はどんな「自分」と出会えるのかな。
わくわくしますね。