仏も人も死にません。

2015年3月7日

先日、英会話の先生(ネイティブ/敬虔なクリスチャン)との会話の中で、タイのあの巨大な涅槃仏の話題が出ました。

 

(以下、全編英語での会話)

 

先生「あの仏さまはなにをしているのですか? スリーピング?」

私 「えーと、あれは寝ているわけじゃなくて、涅槃に入った姿なんです」

先生「NEHAN???」

私 「えーと、涅槃……ニルヴァーナ……そう、ニルヴァーナです!」

先生「???」

私 「えーと、えーと、えーと……つまり、死んでるんです!」

先生「……!? 冗談でしょ!?」

私 「ほ、本当なんです……」

先生「オーマイガー……!!!」

 

ショックを受ける先生に、「でも、安心してください! 仏教では死んだ人は仏になると考えられているんです」とお伝えしてみたのですが、まったく腑に落ちない様子。しばらく黙り込んだのち、先生はこう言いました。

 

「死んだ人間が仏になるのは(なんとか)アンダースタンドしました。では、死んだ仏はなにになるのですか?」

 

これには参りましたね……。笑

 

 

 

「死んだ仏はなにになる?」と聞かれても、そもそも「仏」は死なないし……。

 

というか、人間だってほんとうは死なないし……。

 

 

 

そう、人間はそもそも「仏」なんです。

 

江戸時代の禅僧・白隠さんも言っています。「衆生本来仏なり」って。

 

でも、自分の正体こそが「仏」であることをすっかり忘れて、人間という物語に埋没して生きているのが私たちという存在です。

 

 

 

人間はそもそも「仏」。そして「仏」は死なない。

 

つまり、人間は死なない。

 

 

 

いや、もちろん、肉体は滅びます。その意味での「死」はあります。

 

でも、肉体が消滅したあとにも続く世界っていうのが、確実にあるんです。

 

 

 

それは決して「個別の魂」とか「転生」とかではなくって、

 

そういう分離を一切乗り越えたところにただただ広がる「無」の世界のことです。

 

 

 

そこは、「私」も「あなた」も「彼」も「彼女」も「上」も「下」も「右」も「左」も「あれ」も「これ」も「それ」も……そういった概念、すべてが「ない」世界です。

 

でも、「ない」がゆえに、すべてが「ある」んです。

 

 

 

そこでは、すべてが私でないがゆえに、すべてが「私」なんです。

 

その「すべて」としての「私」のことを、「仏」と言うんです。

 

 

 

「人は死んだら仏になる」っていうのも、つまり、厳密に言えば違いますよね。

 

人は、(肉体の消滅という意味での)死を迎えようが迎えまいが、そもそも「仏」なんですから。

 

 

 

だから、なんだろうな、

 

「人は死んだ瞬間に自分が仏だったことを思い出す」

 

っていうのが、一番正確なことばになるのかな。

 

 

 

死ぬ前に「思い出す」こともできるんですけどね。

 

生きながらにして、「仏」であることを自覚して生きることも、また、可能なんですけど。

 

仏教っていうのは、その方法を説くものなんじゃないのかな。

 

 

 

そんな風に思います。

 

 

 

 

 

 

 

今日は「どストレート」な話題でしたね。

 

日本語だったら、こういう風に、なんとか表現できるんだけどな~。(うまく伝えられているかどうかは別として……。)

 

これ、英語で言えるかな……。笑

 

いや、笑ってる場合じゃなくて。

 

精進しまっす!