ぜんぶ「遊び」

2015年3月5日

「いま、なにしてる?」

 

と聞かれたら、

 

「遊んでる」

 

と答えます。

 

 

 

仕事をしていようが、本を読んでいようが、ネットサーフィンに興じていようが、洗濯物を干していようが、断捨離に精を出していようが、ひたすらにだらだらしていようが、誰かと真剣にお話をしていようが、恋人と喧嘩していようが、風邪で寝込んでいようが、

 

すべて、「遊んでる」と答えます。

 

 

 

いや、実際そう答えることはなくても、でも、気持ちの上では「ぜんぶ遊び!」なのだと認識しています。

 

この世で体験することは、すべて「遊び」だと思っているのです。

 

 

 

自分の人生に起こることは、すべて、「自分」が“たのしみたかった”ことなのだと思うのです。

 

この「自分」っていうのは、「小出遥子」のことではないです。

 

「小出遥子」という名の超ちっぽけな個別の意識が死んだときにはじめて立ち現れる、文字通りすべてをひっくるめた、超巨大な「自分」のことです。

 

その「自分」は、もはや、なんらかの形を持ったものではありません。

 

形がないからこそ、すべてを「自分」として存在できる「なにか」です。

 

そして、その「なにか」こそが、ほんとうの自分の本体です。

 

 

 

この「なにか」が、個別の目線(私の場合「小出遥子」の目線)から切り取られたそれぞれの「人生」という名の物語を、まるで、とてつもなく面白い映画でも眺めるかのようにして“たのしんで”いるのを感じることがあるのです。

 

 

 

 

個別の人格からすれば、「は? 冗談じゃないよ!」と思うようなことだって、人生の上ではたくさん起こります。

 

「こんなこと一ミリも望んでないよ!」と叫びたくなるようなことも、たくさんたくさん起こります。

 

人使いの荒い上司に反発することも、財布をまるごと落とすことも、恋人の浮気を知ることも、悲惨なニュースに胸を痛めることも、長年の夢が破れることも、たくさんたくさんたっくさん起こります。

 

でも、ほんとうの「自分」にしてみれば、そういったことすら、すべて、“味わいたかった”、そして“たのしみたかった”のだと思うんです。

 

ただそれだけの理由だけで、すべては「そうなって」きたし、これからも「そうなって」いくのだと思うんです。

 

思う、というか、そう確信しています。

 

 

 

ほんとうの「自分」こそを、自分の本体として認識できれば、そしてその目線から生きることができれば、この世はこのまま巨大な遊び場に変わります。

 

ほんとうに、ぜんぶが「遊び」なんです。

 

「遊び」なんだから、深刻にならなくていいんです。

 

真剣になってもいいけど、深刻になる必要はないんです。

 

 

 

リラックスこそが人生をたのしむコツって、ほんとうのことだと思います。

 

全身の力を抜いて、「こうしよう、ああしよう」を手放して、人生の流れを信頼して、ゆったりと身を任せた瞬間、

 

はじめて、

 

個別の自分と、ほんとうの自分との目線が合致して、

 

「すべては遊び」であったことがわかるのです。

 

 

 

 

 

 

 

たのしく生きていきましょう。

 

どうせすべては「遊び」なんだから。