「さとり」やら「目覚め」やらを経験した人って、
たとえば、
いつだって穏やかで、あたたかで、やわらかく、決して怒らず、嘆かず、口元には常にやわらかな笑みをたたえている……
とかね、なんか、そんなようなイメージを持たれがちだと思うのですが、
実際に「覚者」と呼ばれている人たちをじっくり観察していると、
上に書いたようなことって、あくまで人々の思い込みでしかないのだな……ということが、すぐに分かります。
彼らにだって、怒りや悲しみはあります。
でも、それが持続しないだけ。
一瞬で「ぱんっ」とはじけてしまうから、あとになにも残らないだけ。
「さとった」ら、ありとあらゆる感情がなくなる……のではなくて、逆にすべてを「感じ切る」ということができるようになるのだと思う。
「感じ切る」ことを、自分に“完全に”許可できるようになる、というか。
「感じ切る」とか「やり切る」とか、そういうのはほんとうに大事なことで。
「○○し切る」ということは、とりもなおさず、「いまを生きる」ということ。
それさえできれば、人は、いつだってすっきりと顔をあげて、楽に呼吸をして、「そのまま」を生きていくということがかなえられるのですね。
「感情」の賞味期限って、ものすごく短いんです。
その場で味わい切る、ということをしなかったら、それは即座に「毒」に変わってしまう。
「覚者」=穏やか、というイメージがあるのは、彼らがそういった「毒」を一切ためこんでいないからでしょう。
彼らは本質的にはふつうの人となにも変わらないけれど、唯一違うとしたら、「いま」しかない、ということを理屈じゃなく知っていて、力を抜きつつも全身全霊で生きている、というところなんじゃないかなあ。
「過去」も「未来」も存在しない。
だから「いま」を生きるしかない。
「いま」「ここ」で、すべてを味わいきって生きるしかない。
「うれしい」も「かなしい」も「むかつく」も……
感情それ自体に良いも悪いもなくて、ただそれは「起こってくる」もので。
私たちにできるのは、ただただそれを「味わって」、そして「解放」してあげることだけなのだと思います。
だから、なんだろな、たとえが下品すぎるけど、まあ、これって、「おなら」みたいなものですよね。笑
出すもの出さなかったら……当然、苦しいですよね。からだにいいことひとつもない。
しかも、出すべきときに出さなかったら、どんどんどんどん「毒」に変わっていってしまう。
でもね、これ、逆に言えば、
“「出せ」ば、一瞬で終わり”
なんですよね。
「出す」ことを怖がらないで良いのですね。
「出さない」ことの方がよっぽど恐ろしいことなのだから。
今日一日だけでも、いや、午前中だけでも、いまから一時間だけでも、自分の感情を「出し切る」「味わい切る」ということをやってみましょうか。
それを自分に許可してあげましょうか。
なにか、少し、掴めるものがあるかもしれません。
よい日曜日をお過ごしください。