「○○し切る」ということ。

2015年2月8日

「さとり」やら「目覚め」やらを経験した人って、

 

たとえば、

 

いつだって穏やかで、あたたかで、やわらかく、決して怒らず、嘆かず、口元には常にやわらかな笑みをたたえている……

 

とかね、なんか、そんなようなイメージを持たれがちだと思うのですが、

 

実際に「覚者」と呼ばれている人たちをじっくり観察していると、

 

上に書いたようなことって、あくまで人々の思い込みでしかないのだな……ということが、すぐに分かります。

 

彼らにだって、怒りや悲しみはあります。

 

でも、それが持続しないだけ。

 

一瞬で「ぱんっ」とはじけてしまうから、あとになにも残らないだけ。

 

 

 

「さとった」ら、ありとあらゆる感情がなくなる……のではなくて、逆にすべてを「感じ切る」ということができるようになるのだと思う。

 

「感じ切る」ことを、自分に“完全に”許可できるようになる、というか。

 

 

 

「感じ切る」とか「やり切る」とか、そういうのはほんとうに大事なことで。

 

「○○し切る」ということは、とりもなおさず、「いまを生きる」ということ。

 

それさえできれば、人は、いつだってすっきりと顔をあげて、楽に呼吸をして、「そのまま」を生きていくということがかなえられるのですね。

 

 

 

「感情」の賞味期限って、ものすごく短いんです。

 

その場で味わい切る、ということをしなかったら、それは即座に「毒」に変わってしまう。

 

 

 

「覚者」=穏やか、というイメージがあるのは、彼らがそういった「毒」を一切ためこんでいないからでしょう。

 

彼らは本質的にはふつうの人となにも変わらないけれど、唯一違うとしたら、「いま」しかない、ということを理屈じゃなく知っていて、力を抜きつつも全身全霊で生きている、というところなんじゃないかなあ。

 

 

 

「過去」も「未来」も存在しない。

 

だから「いま」を生きるしかない。

 

「いま」「ここ」で、すべてを味わいきって生きるしかない。

 

 

 

「うれしい」も「かなしい」も「むかつく」も……

 

感情それ自体に良いも悪いもなくて、ただそれは「起こってくる」もので。

 

私たちにできるのは、ただただそれを「味わって」、そして「解放」してあげることだけなのだと思います。

 

だから、なんだろな、たとえが下品すぎるけど、まあ、これって、「おなら」みたいなものですよね。笑

 

出すもの出さなかったら……当然、苦しいですよね。からだにいいことひとつもない。

 

しかも、出すべきときに出さなかったら、どんどんどんどん「毒」に変わっていってしまう。

 

 

 

でもね、これ、逆に言えば、

 

“「出せ」ば、一瞬で終わり”

 

なんですよね。

 

「出す」ことを怖がらないで良いのですね。

 

「出さない」ことの方がよっぽど恐ろしいことなのだから。

 

 

 

今日一日だけでも、いや、午前中だけでも、いまから一時間だけでも、自分の感情を「出し切る」「味わい切る」ということをやってみましょうか。

 

それを自分に許可してあげましょうか。

 

なにか、少し、掴めるものがあるかもしれません。

 

 

 

 

よい日曜日をお過ごしください。