そもそも個別の肉体があるっていうこと自体が幻想なのだから、そこに立脚して語られる「前世」やら「転生」やらのお話も、結局フィクションに過ぎないんです。
……といったようなことを昨日書きましたが、それに追加して。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
これは戦国武将・上杉謙信の辞世の句です。
かっこいいですよね……。
先日ご紹介した、茨木のり子さんの
にも通じる世界観。
人生とは、その全体が、まさに「夢」のようなもの。
ぜんぶまぼろしなんです。
「さとり」っていうのは、きっと、「生」と呼ばれる現象、それ自体からの目覚めを指すことばなのでしょう。
「さとった」瞬間、前提自体がひっくり返ってしまうのです。
「生」(「ある」を前提とした世界)から「生」を見つめるのではなく、「死」(「ない」を前提とした世界)から「生」を見つめるようになる。
ある意味、「裏側」から世界のすべてを見つめるようになるわけですね。
(ほんとうは決して「裏側」なんてことはないのですけれどね。)
「生」を「夢」だと見抜いたら、あとは、その夢全体を、思いっきり楽しむだけです。
だって、どうせぜんぶがまぼろしなんだから。
明晰夢ってありますよね。
寝ながらにして「自分はいま、夢を見ている」ということに気づき、夢の中で思い通りにふるまうこと。
「さとり」とか「目覚め」とか呼ばれる現象を体験した人たちに起こってくるのは、それそのものなんじゃないのかな。
人生はそれ自体がまぼろし。
それならば、やりたいことぜんぶ、思いっきりやってやろう。
そうやって心身を合致させて動き出した人から、ほんとうの意味での「生」を始めていくのです。
「どうせ死ぬんだから」っていうのは、決して投げやりな、自暴自棄な態度なんかではなくて、
たとえば崖から思いっきりジャンプするようなとき、実はその下にはどんな衝撃にも耐えられる、ふっかふかのクッションが用意されている……
それを理屈ではなく「知っている」状態、というか。
「知っている」からこそ、スリルそのものや、踏み切るときの勇気、風を身に受ける感触などなどを、瞬間瞬間に、その場で、思いっきり味わえるようになる。
「未来」や「過去」ではなく、「たったいま」「この瞬間」に目の前にある「まぼろし」を、全力で楽しむようになる。
そういうことなんだと思うのです。
どうせ最後には「死」という名のふっかふかのクッションが、やさしくやわらかくあたたかく、自分を抱きとめてくれる。
だから大丈夫。
よろこびも、かなしみも、怒りも、痛みすらも……
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、思いっきり味わってしまおう。