「さとり」と明晰夢

2015年2月6日

そもそも個別の肉体があるっていうこと自体が幻想なのだから、そこに立脚して語られる「前世」やら「転生」やらのお話も、結局フィクションに過ぎないんです。

 

……といったようなことを昨日書きましたが、それに追加して。

 

 

 

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

 

これは戦国武将・上杉謙信の辞世の句です。

 

かっこいいですよね……。

 

先日ご紹介した、茨木のり子さんの

 

「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」

 

にも通じる世界観。

 

 

 

人生とは、その全体が、まさに「夢」のようなもの。

 

ぜんぶまぼろしなんです。

 

 

 

「さとり」っていうのは、きっと、「生」と呼ばれる現象、それ自体からの目覚めを指すことばなのでしょう。

 

「さとった」瞬間、前提自体がひっくり返ってしまうのです。

 

「生」(「ある」を前提とした世界)から「生」を見つめるのではなく、「死」(「ない」を前提とした世界)から「生」を見つめるようになる。

 

ある意味、「裏側」から世界のすべてを見つめるようになるわけですね。

 

(ほんとうは決して「裏側」なんてことはないのですけれどね。)

 

 

 

「生」を「夢」だと見抜いたら、あとは、その夢全体を、思いっきり楽しむだけです。

 

だって、どうせぜんぶがまぼろしなんだから。

 

 

 

明晰夢ってありますよね。

 

寝ながらにして「自分はいま、夢を見ている」ということに気づき、夢の中で思い通りにふるまうこと。

 

「さとり」とか「目覚め」とか呼ばれる現象を体験した人たちに起こってくるのは、それそのものなんじゃないのかな。

 

 

 

人生はそれ自体がまぼろし。

 

それならば、やりたいことぜんぶ、思いっきりやってやろう。

 

そうやって心身を合致させて動き出した人から、ほんとうの意味での「生」を始めていくのです。

 

 

 

「どうせ死ぬんだから」っていうのは、決して投げやりな、自暴自棄な態度なんかではなくて、

 

たとえば崖から思いっきりジャンプするようなとき、実はその下にはどんな衝撃にも耐えられる、ふっかふかのクッションが用意されている……

 

それを理屈ではなく「知っている」状態、というか。

 

「知っている」からこそ、スリルそのものや、踏み切るときの勇気、風を身に受ける感触などなどを、瞬間瞬間に、その場で、思いっきり味わえるようになる。

 

「未来」や「過去」ではなく、「たったいま」「この瞬間」に目の前にある「まぼろし」を、全力で楽しむようになる。

 

そういうことなんだと思うのです。

 

 

 

どうせ最後には「死」という名のふっかふかのクッションが、やさしくやわらかくあたたかく、自分を抱きとめてくれる。

 

だから大丈夫。

 

よろこびも、かなしみも、怒りも、痛みすらも……

 

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、思いっきり味わってしまおう。