「あるかなきか」のことばかり、毎朝毎朝せっせせっせと書いているので、
「小出遥子さんという人は、さぞスピリチュアルな方なのだろう……」
と思われても仕方がないような部分はあるのですが、
いや、実際「スピリチュアル」な話もまったく嫌いではない……のですが、
私には、一般的に言われる「スピリチュアルな方々」と、明確に意見を異にする点っていうのがあって、
それは、
「前世なんて嘘っぱちだね~」
「個別の魂なんてあるわけないじゃん」
というところで。
いや、「嘘っぱち」っていうのはことばが強すぎますね。
嘘……ではないものね。ぜんぜん。
そういうお話も、あるレベルにおいては、「ある」とは思うんです。前世とかね、生まれ変わりとか、そういう「物語」は、ぶっちゃけ、私だって大好きなんです。
だって楽しいもの、そういうの。夢があるもの。
でも、それって、結局、「娑婆」のお話、というか。「物語」(フィクション)にすぎないんですね。
究極的な「ほんとう」の世界には、「個別の」なにかはひとつも存在しないんです。
だってそこには一切の「分離」がないから。
そこには、ただ「ひとつ」……というか、「ふたつでない」としか表現しようのない世界が、ただただ「ある」だけ。
なにも「なく」て、それゆえに、すべてが「ある」世界が、ただただ「ある」だけ。
それだけが、「ほんとう」です。究極的にはね。
だから、なんだろな、「前世」とか「転生」とかって、結局は、肉体を持って生きている者のためのもの、というか。
夢の中で見る夢、というか。
だって、昨日も書いたけれど、肉体があることすら、ほんとうは幻想なんです。
ついでに言えば、時間だって幻想。
「分離感」を生み出すものは、すべて幻想なんです。
幻想、それゆえに、肉体の消滅とともに、「個別の魂」という夢も、一瞬にして消えてしまいます。
夢が消える、というか、夢から覚める、と言った方が正確かな。
死んではじめて目を覚ますって、まあ、「世話ねえな」って話なんですけど……。
でも、生きているうちに目覚めることも、ほんとうは可能だったり、ね。
いや、「前世」とか「転生」とか、そういう考え方を真っ向から否定しているわけではないんです。
これだけ書いといてアレなんですが、あの、私だって、そういうお話、ほんとうに好きなんです。
お金払って、「前世」、見てもらったことだってありますし。そして、そこで告げられたストーリーに、やけに深くうなずいてしまった、という経験だってございます。
だから、そういう「夢」の大切さは、重々承知しています。
人生に「夢」は必要です。
「夢」がなかったら、人生はまったくもって味気ない。
「夢」によって、人生という「夢」への理解が深まることだってあるでしょう。
「夢」は、人生をより楽しく、味わ深いものにするためのエッセンスです。
でも……結局、「夢」は「夢」にすぎないんですね。
私が言いたいのは、その「夢」から覚めたときに、自分が見ていた「夢」よりも、さらにうつくしくてあたたかくて一切の不安から解き放たれた、それこそ「夢みたい」な「ほんとう」が、私たちを待っているのかもしれないよ、ということです。
「夢」を見続けてもいい。ぜんぜんかまわない。
でも、「夢」から覚めて、「ほんとう」を“生きる”ことだって可能なのだ、ということ。
忘れたくないなあ。