「前世」や「転生」なんてフィクションです。

2015年2月5日

「あるかなきか」のことばかり、毎朝毎朝せっせせっせと書いているので、

 

「小出遥子さんという人は、さぞスピリチュアルな方なのだろう……」

 

と思われても仕方がないような部分はあるのですが、

 

いや、実際「スピリチュアル」な話もまったく嫌いではない……のですが、

 

私には、一般的に言われる「スピリチュアルな方々」と、明確に意見を異にする点っていうのがあって、

 

それは、

 

 

 

「前世なんて嘘っぱちだね~」

 

「個別の魂なんてあるわけないじゃん」

 

 

 

というところで。

 

 

 

いや、「嘘っぱち」っていうのはことばが強すぎますね。

 

嘘……ではないものね。ぜんぜん。

 

そういうお話も、あるレベルにおいては、「ある」とは思うんです。前世とかね、生まれ変わりとか、そういう「物語」は、ぶっちゃけ、私だって大好きなんです。

 

だって楽しいもの、そういうの。夢があるもの。

 

でも、それって、結局、「娑婆」のお話、というか。「物語」(フィクション)にすぎないんですね。

 

 

 

究極的な「ほんとう」の世界には、「個別の」なにかはひとつも存在しないんです。

 

だってそこには一切の「分離」がないから。

 

そこには、ただ「ひとつ」……というか、「ふたつでない」としか表現しようのない世界が、ただただ「ある」だけ。

 

なにも「なく」て、それゆえに、すべてが「ある」世界が、ただただ「ある」だけ。

 

それだけが、「ほんとう」です。究極的にはね。

 

 

 

だから、なんだろな、「前世」とか「転生」とかって、結局は、肉体を持って生きている者のためのもの、というか。

 

夢の中で見る夢、というか。

 

だって、昨日も書いたけれど、肉体があることすら、ほんとうは幻想なんです。

 

ついでに言えば、時間だって幻想。

 

「分離感」を生み出すものは、すべて幻想なんです。

 

 

 

幻想、それゆえに、肉体の消滅とともに、「個別の魂」という夢も、一瞬にして消えてしまいます。

 

夢が消える、というか、夢から覚める、と言った方が正確かな。

 

死んではじめて目を覚ますって、まあ、「世話ねえな」って話なんですけど……。

 

でも、生きているうちに目覚めることも、ほんとうは可能だったり、ね。

 

 

 

いや、「前世」とか「転生」とか、そういう考え方を真っ向から否定しているわけではないんです。

 

これだけ書いといてアレなんですが、あの、私だって、そういうお話、ほんとうに好きなんです。

 

お金払って、「前世」、見てもらったことだってありますし。そして、そこで告げられたストーリーに、やけに深くうなずいてしまった、という経験だってございます。

 

だから、そういう「夢」の大切さは、重々承知しています。

 

人生に「夢」は必要です。

 

「夢」がなかったら、人生はまったくもって味気ない。

 

「夢」によって、人生という「夢」への理解が深まることだってあるでしょう。

 

「夢」は、人生をより楽しく、味わ深いものにするためのエッセンスです。

 

 

 

でも……結局、「夢」は「夢」にすぎないんですね。

 

 

 

私が言いたいのは、その「夢」から覚めたときに、自分が見ていた「夢」よりも、さらにうつくしくてあたたかくて一切の不安から解き放たれた、それこそ「夢みたい」な「ほんとう」が、私たちを待っているのかもしれないよ、ということです。

 

 

 

「夢」を見続けてもいい。ぜんぜんかまわない。

 

でも、「夢」から覚めて、「ほんとう」を“生きる”ことだって可能なのだ、ということ。

 

 

 

忘れたくないなあ。