苦行に意味はない?

2015年2月4日

最近、また、目から分厚いウロコがはがれ落ちるというか、

 

「え!? は!? そうだったの!? これって、こういうことだったの!?!?!?」

 

と心底驚き、驚いてできた空白に、“理解”が彼岸から「すとーん」と降ってくる、という経験をしました。

 

 

 

どういったタイプの気づき、そして理解だったかは、もう少し、私の中でことばが熟してからまとめようと思うのですが、

 

ちらりと出してしまえば、

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーーーんぶ幻想じゃないか!」(興奮)

 

というのと、

 

「あーあ、私たち、ふだん、どんだけ幻想の中で生きてるんだろ……」(脱力パート1)

 

「人間、それすなわち、思い込みの権化なり……」(脱力パート2)

 

というのが、ぴったり同時にやってきたんですね。

 

……あ、ちっともちらっと出しじゃないや。全部出しちゃった。

 

まあ、いいや。笑

 

 

 

今回のそれは、「食」に関する、とある人体実験中にやってきたのですが(自らの肉体を実験台にしてのものです。好奇心と実験精神が旺盛すぎる私……。興味をもったものは、一度やってみなけりゃ気が済まないのですね。)

 

あれですね、

 

たとえば数日にわたる断食とか、超長時間の坐禅とか、真冬の滝行とか、

 

そういう、こう、肉体を酷使する系の「行」って、

 

たぶん、すべて、

 

最終的には、

 

「肉体なんて幻想だった!」

 

「っていうことは、すべてが幻想だった!」

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーーーんぶ、“思い込み”だった!!!」

 

っていうところに辿り着くためのものなんじゃないかな、と思ったんです。

 

……って、また当たり前すぎること書きました?

 

 

 

私たちは、究極的には「ひとつ」。

 

でも、個別の肉体を持って生きていると、どうしたって、個別の「私」というものがいるような気がしてきてしまうんですね。

 

でも、それこそが最大の“思い込み”で。

 

 

 

「肉体」という幻想を打ち破るためには、「肉体」にコミットするのが一番の近道。

 

「肉体」こそが最大の“思い込み”であると見抜いてしまえば、残った数々の思い込みも、自動的に、ずばばばばばーっと解除されるんですね。

 

それを意図して、数々の「苦行」と呼ばれるものたちが生まれたのでしょう。

 

 

 

お釈迦さまは「苦行に意味はない」とおっしゃったそうですが、

 

そりゃあ確かに、肉体をいじめすぎて、逆にそれに執着して、激マッチョになってちゃ、もう、ぜんっぜん意味がないわけです。

 

 

 

いや、一足飛びに「肉体は思い込み!」「すべては幻想!」とはならないです、もちろん。

 

最初は、飢えや痛みやしびれなどによって、嫌というほど「自分に肉体があること」を意識せざるを得ないでしょう。

 

でも、その先に、大規模な「意識の転換」とも呼ぶべきことが起こってこないと、いつまで経っても肉体という名の檻から抜け出せないんですね。

 

「意識を変える」というか……もっと簡単にいえば、「視点をずらす」かな。

 

 

 

「これは本当に“苦しいこと”なのか?」

 

「そう思い込んでいるだけなんじゃないのか?」

 

苦行を苦行と思わなくなった瞬間、あらゆる思い込みから解放されるんです。

 

 

 

「答え」はどこにある?

 

――遥かにあらず。心中にしてすなわち近し。

 

「答え」はいつだって「いま」「ここ」に。

 

 

 

肉体を極限状態に置くと、人間は、「余計なこと」を考えなくなります。

 

外側のものに目を向けることをしなくなる、というか。

 

そこに、最大のチャンスがあるのだと思う。

 

 

 

 

 

……って、具体例を出していないから、今日の話、ぜんぜん伝わらなかったかもしれませんね。

 

ごめんなさい。

 

近いうちに、自らの身を挺しての人体実験の結果と、そこから得られた気づきについて詳しくレポートします。

 

 

 

乞うご期待!