「大丈夫じゃない私」と「大丈夫ななにか」

2016年9月30日

おはようございます。小出遥子です。

ここ数日、仕事の面で、大小さまざまな「事件」が勃発続きで、
私の感情は冬の日本海並みに荒れに荒れていたわけですが、
なんとなく、ようやく、すべて、収束に向かっているかな……?
という感じになってきました。

ああ、ほんとうに大変だった……。

事実は事実として、
いつだってただシンプルに「ある」だけなんだけれど、
そこに「私」が乗っかってくると、
いろんなことが一気に複雑になってしまうのですね。
身を持って経験しました……。

まあ、とにかく、ありとあらゆるネガティブなものを
フルコースで味わい続けたような数日間だったのですが……
その中で、私、
「感情」って、やっぱり、どうしたって自分では選べないんだな~
ってことを実感しましたね。

「感情」は、そのときどきの縁の中で
おのずから立ちあらわれてくるものであって、
ぜったいに自分の力で選べるものではない。

選べるのだったら、当然、誰だって、いつだって、
「嬉しい」とか「楽しい」とかばかりを選びますよね。

でも、ざんねんながら、私たちにその選択の権利はない。
だからときには「悲しい」とか「イライラする」とかを
この身をもって味わわなくてはいけなくて。

好むと好まざるとにかかわらず、ね。

さらに、
「感情」が自分の力で選べないのだったら、
それに付随して起こってくる「思考」や「行動」だって選べなくて……。

私だって、そりゃあできることなら、
暗くて暴力的な考えなんか浮かべたくなかったし、
真昼間のファミレスで泣きじゃくりたくなんかなかったし、
グチグチと文句なんか並べ立てたくなんかなかったし、
目や鼻を真っ赤に腫らしてブサイクな顔になんかなりたくなかったですよ。

でも、選べなかったの!
ほんとうに!
ぜんぶ勝手に起こっていたの!

……って、こんな風に書いたところで、
「衝動的な行動に走った大人気ない女が見苦しい言い訳をしている」
という風にしかとらえられないのでしょうけれど。

でもねえ……

先日もこのBlogに書きましたけれど、
ありとあらゆる「感情」や「思考」や「行動」が
ごくごく勝手に湧き上がっては暴れまわって、やがて去って行くさまを
すべて、超冷静に、完全にニュートラルなところから眺めている「なにか」があって。

そいつはなにに対しても手出しもしないし、口出しもしないし、
かと言って冷たいわけでもなく、でもあたたかいわけでもなく、
ありとあらゆる二項対立を超えたところから、
ただただすべてを受けいれるともなく受けいれていて……。

その「なにか」と「私」はいつだってともにあって、
だから私は、どんなに激しい荒波にもみくちゃにされようとも、
ベースの部分では、絶対的に、「大丈夫」だったんです。

……この文章じゃ、伝わらないだろうなあ(笑)。
でも、ほんとうに、こんな感じでした。

「大丈夫じゃない私」と「大丈夫ななにか」が交互に出現するわけではなくて、
それはいつだって「ひとつ」としてここにあって、そこにはなんの矛盾もなくて……。

その「ひとつ」こそを、
禅では「本来の面目」と呼ぶのでしょうし、
浄土仏教では「南無阿弥陀仏」と呼ぶのでしょう。
きっとね。
そういうことだと思うんです。

それを再確認した、今回の騒動でした。
(無理やり綺麗にまとめた!)

今日は、心安らかに仕事をしたいなあ……。
いろいろ遅れているし……。

 

お読みくださってありがとうございました。

よい一日をお過ごしください◎