何気に「神回」配信をしてしまった。
まだご覧になっていない方は、ぜひ。
私たちはさ、
生まれての頃は、あまりにも当たり前に、
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
っていう世界を生きていたんだよね。
「わたしは世界」
「世界はわたし」
とも言えるけど。
世界は、まるっきりの「ひとつ」だったんだ。
でも、だんだん物心がついてきて、
大人になっていくにしたがって、
「わたしはわたし」
「あなたはあなた」
っていう、「ばらばら」の世界しか見えなくなっちゃった。
でも、それでいいの。
それでなにも問題はなかったの。
なぜなら、人は、どうしたって社会的な動物だから。
「わたしはわたし」として、
「あなたはあなた」として、
独立した個と個として、
お互いに優しく関わり合えた時に、
大きなよろこびを感じる生き物だから。
ここには、赤ん坊の頃の、
「記憶」とも呼べない「記憶」が関わっているのかもしれない。
人は、ただただ、優しくし合いたい生き物なんだ。
お互いに優しく関わり合って、
優しい気持ちで生きていきたいだけの生き物なんだ。
だって、それが「当たり前」だったのだから。
「優しくし合いたい」
ただ、その、どこまでもピュアな、
涙が出るほど切実な、人としての、根源的な、願い。
悲願。
この願いを、悲願を、
抱えずに生きている人なんかいない。
ただ、その実現方法がわからないだけなんだよね。
本来的な「つながり」のあり方を忘れてしまって、
表現方法を間違えて(「つながろう」「つながろう」としすぎて)、
結果、自分も他人も傷つけてしまう。
こんなことなら、もう、誰とも関わり合いたくない。
ひとりで生きていきたい。
そんな心を閉ざしたくなることだって、あるよね。
赤ん坊の頃のまま、
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
っていう世界観のままに生きられたらよかったのに。
そうしたら、誰も傷つけずに済んだのに。
でも、そうはなっていない。
そんなふうにはなっていない現実がここにある。
それなら、そこからはじめるしかない。
スタート地点は、いつだって「ここ」しかない。
「わたしはわたし」
「あなたはあなた」
のままに、
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
を感じられないままに、
それでも、わたしたちは、
「すでに」
どうしようもなく関わり合って、
生かし合って、支え合っているのだということ。
それを、無意識のところでは、
ちゃんと感覚しているのだということ。
その事実に、すべてを「おあずけ」してしまった時、
見えてくる世界は、やっぱり、優しい。
そこにおのずと生まれてくる関係性は、
とてつもなく優しいあり方にしかならないんだ。
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
この「ひとつ」の世界は、失われてしまったわけじゃない。
ただ、個人の意識では感知できないだけ。
でも、「ある」んだよ。
個人の意識を超えたところに……
いや、個人の意識「以前」のところに。
どうしようもなく、ただ、「ある」んだ。
わからなくていい。
感じられなくったっていい。
時に傷つけ合うことが起きてきてしまっても大丈夫。
あなたとわたしは、
いつだって「ひとつ」としてともにある。
だから。
「わたしはわたし」として、
「あなたはあなた」として、
独立した個と個として、
お互いに優しく関わり合っていくことも、
ぜったいに、可能。
キーワードは、「すでに、ある」。
優しい世界は、すでに、ある。
「わたしはわたし」と「わたしはあなた」の真ん中に。
「あなたはあなた」と「あなたはわたし」の真ん中に。
すでに、あるんだ。
大丈夫だから、ね。