降参しちゃえ!

2014年10月28日

昨日、青山俊董さんのお話を挙げて、「この世に愛でないものはない。そして、憎しみの相手こそが、実は一番の愛だったりする。だってその相手は、自分自身が、我をこり固まらせた“氷”の状態であることに気づかせてくれる存在だから。気づいたら、その瞬間から、自ら溶け出すことができるから。“仏”に戻っていくことができるから」といったようなことを書いた。

 

 

 

誰もがみな、オンギャーと真っ赤な顔をして素っ裸で生まれたときには、我を固まらせていない状態、つまり「水」=「仏」そのものだった。それが、生きていく上でさまざまな葛藤を得て、自分勝手な思い込みを次々に作り上げ、「これ以上傷付きたくない!」とばかりに自分自身を冷たい「氷」の塊にしてしまう。

 

でも、元々が「水」=「仏」であったからこそ、きっかけ(それは一見して「良くないこと」である場合が多い)さえあれば、「氷」の状態を抜け出し、「仏」になっていく……というか、「仏」そのものである自分自身を見出していくことができるのだ。

 

 

 

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

(白隠禅師「坐禅和讃」より)

 

 

 

 

 

さて、昨日の記事に対して、ある方がこんなコメントをくださった。

 

“ちょうど昨日、氷だった自分に気付かされたばかりだったので、タイムリーな記事でした。確かに昨日、気付いた瞬間は、あー気付けてよかったと、それまで気付けなかった自分を怖く感じてしまうけど、でもそうやって人は少しずつ自分を見る、客観的な目(視点)が増えていくのかと思いました。”

 

それに対して、私はこう答えた。

 

“Wさんはどんどん仏としてのご自身を見出していらっしゃいますね。「客観的な目」は、実は、「仏の目」そのものですね。”

 

すると、同じ方から、さらにこんなコメントをいただいた。

 

“なるほど、あれは仏の目だったんですね。少しずつ自分が自分から離れていくのはつまりそういうことだったんだ。”

 

……通りすがりの人が見たら、いったいなにを話しているのやら、さっぱりわからないような気味の悪い会話であろうが、私はすごく嬉しかった。(元々彼は「俺が髪を切っているんじゃなくて、俺の後ろ側にいる人が切っているっていう感覚なんだよね~」といったようなことを、平然と言い放つ美容師さんではありましたが……って、これじゃ誰だかバレバレですね。笑)

 

 

 

自分自身が「氷」であることに気づくためには、「相手」が必要。気づかせてくれた相手は「仏」、つまり「愛」。

 

そして、「氷」であることに「気づいた」、この「気づき」自体も「仏」の働き、つまり「愛」。

 

「気づき」の前に、自分自身を客観的に見た「自分」、それ自体も「仏」の働き、つまり「愛」。

 

 

 

あれ?

 

じゃあ、もしかして、ぜんぶが、本当に、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶが、「仏」、そのものってこと?

 

ということは……この世に「愛」でないものなど、ひとつとしてないってこと?

 

 

 

 

 

仏の愛から逃れることなどできはしない。

 

だって、逃れようとしてる「自分」すら、「仏」なんだもの。

 

 

 

どこまで行っても、仏さまの手のひらの上だ。

 

それならば、もう、いっそ、降参してしまった方が早いんじゃないか。

 

 

 

疲れ果てて、降参して、あはは、もういいよ、お好きにどうぞ、思召すままに。

 

 

 

そうやって、仏さまのやわらかな手のひらに全身を投げ出して、「南無」の境地にくつろいだら……

 

 

 

そこに広がっているのは、自分が一番見たかった景色だったりするのでしょう。

 

懐かしくて、あたたかくて、心の底からほっとして、思わず「ただいま」を言いたくなってしまうような、「ありがとう」の言葉が口をついて出てきてしまうような……そんなやさしい景色が、ただただ、どこまでも、どこまでも、広がっているのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

南無仏。