魂のよろこぶ方へ!

2014年10月23日

昨日のブログをアップした直後、友人から面白い言葉を教えてもらった。

 

『人は最初は何にでもなれる可能性がある。

しかし、なにかを選択するということは、他の選択肢を選択しないということなんだ。』

 

『選択する』という行為の重みの話であり、その重みを理解せず安易に選択して行くと、何も実らず、結果として何も選択していないのと同じになるという話……であるらしい。

 

 

 

「なにかを選択するということは、他の選択肢を選択しないということ」というのは、曲りなりにも日々文章を書くことに向き合っている身として、よくわかるような気がする。なにかを「書く」、ということは、つまり、それ以外の膨大な量のなにかを「書かない」ということだから。その事実に「はた」と気づかされ、筆が止まってしまうこともたびたびだ。まあ、「えいや」とばかりに、最後には勢いに任せて書いてしまうんですけどね……。

 

 

 

「選択する」という行為の重みかあ……。

 

 

 

なるほど、選択にはいつだって責任というものがついてまわる。それは、いわば、「自分の人生」に対する責任だ。(決して「他人の人生」ではないところがミソ。「自分」の選択は、本当の厳密な意味では「自分」にしか影響力を持たない。「俺の選択によって家族があああ……!」っていうのは実はフィクション。これについてはきっと補足説明が必要だと思うので近いうちにまとめます。)

 

でも、それを、「重い」もの(「重苦しい」といったニュアンスかな……)にするかどうかは本人次第だと思う。

 

 

 

たぶん、選択に重苦しさを感じるのって、「恐れ」を基準にしてしまっているときなのだと思う。そして、「恐れ」から選んだものは、「何も実らず、結果として何も選択していないのと同じになる」といった事態につながりやすい……というか、ほぼ100パーセントそうなります!(私調べ)

 

だってそこには、本当の意味での「責任」がないから。

 

「恐れ」からなにかを選択するっていうのは、つまり、「恐れ」になにかを選ばされている、ということ。

 

そこでは、「自分」が主語になりえないのだ。

 

これが大問題で……。

 

 

 

自分「が」選んだことの結果なら、望んだものであろうとそうでなかろうと、そこには少なくとも「納得」がある。

 

そして、この「納得」こそ、真実、人間がもっとも求めていたものだったりするのだ。結果なんてものは、実は、二の次三の次だったりする。

 

だって、みな、人生を、そしてそこに展開される様々な感情を、ただただ味わいたいがために、この世に生まれてきたのだから。

 

そこには「自分」を主語とした「納得」が、ぜったいに必要なのだ。

 

 

 

二つの選択肢を前に、「むむむ……」と立ち止まってしまうときには、「恐れ」ではなく、「愛」を基準に選ぶといい。

 

わかりやすく言えば、「自分の魂がよろこぶ方!」を選んでいく、ということ。

 

想像したときに、自分の心がふわっと広がっていくイメージを持てる方。心臓がどきどきいって、全身の血のめぐりが良くなって、ぽかぽかしてくる方。わくわくして、「やるぞ~」と自然に思える方。なんだか頬がゆるんで、にこにこしてしまう方。全体的に「広がっていく~~~」っていうイメージかな。

 

「恐れ」から選ぼうとした場合、上に書いたものとはまったく逆の現象が起きるはず。

 

 

 

 

 

日々の選択ひとつひとつ、自分の感覚をじっくりじっくり味わって、頭ではなく、心で決めてみてください。

 

魂のよろこぶ方へ! を合言葉に。

 

そこにはぜったいに納得のいく結果が待っているはずだから。

 

ひいては、納得のいく人生が待っているはずだから。

 

 

 

 

なんとなく、この記事を必要としている方がいるような気がしたので書いてみました。

 

なにかのお役に立てれば……。

 

 

 

 

 

 

(ていうか、Kくん、勝手に記事にしてしまってごめんなさい!)