「自分」って誰ですか?

2014年10月20日

昨日の記事で、四国遍路の「逆打ち」のはじめとされる衛門三郎さんという人の話を紹介して、「自分で自分に呪いをかけて、その呪いに苦しんで、苦しみの中に「気づき」を得て、自分自身に懺悔をして、涙のうちにようやく解放の光を見て……。人間がこの世でやっていることは、すべて一人相撲のようなものだと思う」と結んだのだが、それに対して、ある方からこんな質問をいただいた。

 

“「自分」って誰ですか?”

 

それに対して、私はこうお答えした。

 

“「自分」という言葉は、自分が自分だと思っている存在、そのものという意味として、ここでは使っています。「意識」と言い換えても良いかもれません。”

 

すると、同じ方から、さらにこんな返信をいただいた。

 

“そのように「個々人」を『自分』と限って観ているかぎり、『呪い』の連鎖は止まらないんでしょうねえ……。”

 

まったく、その通りなのだった。

 

なので、この部分、ちょっと補足します。

 

 

 

上にも引用したが、私は、昨日の記事の中で、「人間がこの世でやっていることは、すべて一人相撲のようなものだと思う」と書いた。

 

ここでのポイントは、「この世で」という部分。

 

「この世」とは、「個人」という存在が「ある」と認識されている世界のこと。「小出遥子」という個人のいる世界。これを書いている「小出遥子」と、これを読んでいる「あなた」が別々のものとして生きている世界。「小出遥子」は「小出遥子」という個人単体、それのみを「自分」だと思っているし、「あなた」は「あなた」という個人単体、それのみを「自分」だと思っている、この世界。

 

私は私。あなたはあなた。彼女は彼女。彼は彼。あれはあれ。これはこれ。

 

すべてが区別された、分離の世界。

 

 

 

「分離」の世界である「この世」には、「時間」という概念があって、「過去」「現在」「未来」がひとつの直線上に並んでいると考えられていて、その順番は決してひっくり返したりはできないものとされている。

 

それで、「呪い」は、この、「時間」という概念の産物なのだ。

 

“「過去」にあんなことをしてしまったから、「未来」はこうなるに違いない……”

 

自分が自分にかける「呪い」を言語化すると、上記のようなことになるだろう。

 

これ、完全に、「時間」を「ある」ものとして見てしまっていますよね?

 

つまり。「因果応報」という言葉は、実は、「時間」という概念を前提とした上でしか、有効とはならないのだ。

 

 

 

ということは。逆に言えば、「時間」という概念のない世界では、「呪い」はまったく効力をもたない、ということだ。

 

というか、そもそも、「時間」という概念のない世界=「いま」しかない世界=一切の分離のない世界では、「個人」という概念すら存在できず、ゆえに「呪い」をかける主体も客体も存在できず……というか、そもそもすべてが「ない」のだから、な~~~んにも存在できないのだ。

 

本当は、な~~~んにもないのだ。

 

 

 

しつこいほどに繰り返しますが、この「な~~~んにもない」世界こそが、実は本当の世界で。

 

私たちが「自分」という意識を持って生きている(と思っている)「この世」は、本当はすべて幻想なのだ。

 

 

 

……なんて、月曜の朝からぶんぶんぶっ飛ばしちゃっていますが。

 

でも、じゃあ、なんで「ない」という真実の世界から、「ある」という幻想の世界にやって来ちゃったんだろう。なんで「呪い」の世界に来ちゃったんだろう。……という話になりますが、それはね、もう、

 

「それを味わいたかったから。」

 

その一言に尽きるのだと思う。

 

 

 

なんにもない世界では、「一人」相撲すら、味わえないのだもの。

 

「一人」という幻想すら、味わえないのだもの。

 

ただただ、味わいたかったのだ、すべてを。「自分」は。

 

 

 

自分で自分に呪いをかけて、その呪いに苦しんで、苦しみの中に「気づき」を得て、自分自身に懺悔をして、涙のうちにようやく解放の光を見て……。

 

そんな自分を、ものすごく冷静に、同時にものすごく楽しげに見ている存在、それこそが、本当の「自分」です。

 

 

 

 

 

味わって、味わわせて、今週もできるだけ楽しく生きていきましょう。