「ある」ものは「ある」、「ない」ものは「ない」、以上!

2016年9月26日

おはようございます。小出遥子です。

昨日は大好きな友人ふたりと、珍しく終電近くまでお酒を飲んでいました。
たぶん、東京で一番コスパのいい焼き鳥屋さんで。
サプライズで「Temple創設おめでとう!」のメッセージ付きの花束をもらって大感激……。
ほんとうにうれしかった……。
でも、とにかくたのしすぎて、しゃべりすぎたせいで、いま、声がガラガラです……。
今日は、丸一日、声を出さずに養生しよう……。

で、この友人たちとも話し合っていたのですが、
世の中にはいろ~~~んな生き方、考え方があって、
そのひとつひとつが間違いなくいのちの表現そのものであって、
だから、否定されるべきものなんか、ほんとうはひとつとしてないのだけれど、
でも、なににおいても、それを無理やり「主義」「イズム」にしてしまうと、
ズレ、もっと言えば嘘が出てくるよね、ということ。

嘘が出てくると、苦しくなってしまうのでね、
それは、できるのなら、避けた方が良いのではないかな、と。

そもそも、人がどうしてそっちに行ってしまうのか、というと、
「軸がブレない」とか、「芯が通っている」とか、
そういうのが、なにかとても良いことのように扱われるような時代ですからね、
「自分も、一本、ぜったいにブレない軸や芯を持ちたい!」と望んで、
「そのヒントになるのでは?」という風に思って、
世の中にあまたある「〇〇主義」とか「××イズム」とかに
こぞって飛びついてしまうのだろうな、と。

そういう方々の気持ちは、とてもよくわかるんです。
なぜなら、私もまったく同じ考え方をしていたので。

私もね、ホントいろいろやったんです。
お肉を絶対に食べないとか、お酒を絶対に飲まないとか、
天然素材の服しか着ないとか、髪を染めないとか、
なにがなんでも西洋医学の薬を飲まないとか……
うーん、あんまりいい例が出てこないけれど、
まあ、言ってみれば「反不自然主義」みたいなやつかな。
こんなことばはないかもしれないけれど、
とにかく「不自然」なことはしない、っていう主義ですね。
それをひっそり(?)掲げて、いろいろいろいろ、厳密にやっていた時代がありました。
(というか、正直、つい最近までやっていました。めちゃめちゃつい最近!)

でも、どうなんだろう。
人間なんて、揺れていて当然なんじゃないかな、と。
ブレているのがデフォルトというかね(笑)。
それを認めたら、楽になりました。

「主義」を掲げて生活するのが悪いことだと言いたいわけじゃないんです。
でも、その場合、ほんとうに、ほんっとうに、常に細心の注意を払わないと、
「ある」ものを「ない」ものに、
「ない」ものを「ある」ものにしてしまいがちになる、ということは、
こころのど真ん中に置いておいた方がいいんじゃないかな、と。

私も、あるとき、きっかけは忘れましたが、
その落とし穴に自らハマりにいっている自分の姿を
目の当たりにせざるを得なくなった瞬間があったんですよ……。

正直、見たくなかったです。

でも。

その次の瞬間、どういうわけだか、ごくごく自然に、
「もういいじゃん」って思えたんですよね。
「もうやめよう」って。

「ある」ものを「ない」ものに、
「ない」ものを「ある」ものにしてしまう生活は、それこそ「不自然」だって。

お肉を食べたかったら食べていいし、お酒を飲みたかったら飲んでいい。
食べたくなかったら食べなくていいし、飲みたくなかったら飲まなくていい。
ものすご~く単純な話だったのに、
私はなんでこんなに複雑にしちゃっていたんだろう、って。

そう思ったとき、なんかね、フワッと、手から離れていった気がしました。
ありとあらゆる「主義」が。

もともとない「軸」や「芯」を無理やり設定してしまったところから、
「ズレ」や「ブレ」という概念が生み出されて、
「こんな自分じゃダメだ!」ってぐるぐるぐるぐるしていたんだろうな、と。

完全にひとり芝居、ひとり相撲ですよね。
もう、そういうのはやめよう、って。

「ある」ものは「ある」、「ない」ものは「ない」、以上!
それでいいじゃない。なにも問題ないよ~。

……そう、なんの力みもなく思えたときに、
逆説的だけれど、「絶対にブレようのない自分」を強く感じたんですよね。

面白いですよね。

まあ、大半の方にとっては「だからなんだ!?」というようなお話だったと思うのですが、
なんとなく、体験を共有したくなったので、書いてみました。

「食べたい」と思って食べた昨日の焼き鳥と、
「飲みたい」と思って飲んだ昨日のビール、最高でしたよ。

 

お読みくださってありがとうございました。

よい一日をお過ごしください◎