昨日の記事で、
「幽霊なんているわけがない!」「人間の成仏率は100パーセント」「“浮かばれない”人なんていないんです」
なんてことを書きました。「いつかまとめます」と言いましたが、今日、さっそく補足します。
私のいままでの30年間の人生の中での最大の発見は、
「人は死なない」
ということでした。
ふいに、気づいてしまったのでした。(このあたりのことは今年の8月の中旬ぐらいに体験談として長々とこのブログに載せました。ご参照ください。)
「人はそもそも生まれていない。だから死ぬこともない。“生”も“死”もなかったんだ。“無”がすべてを作り出していたに過ぎないんだ……!」
そう気づいたときの衝撃は忘れられません。いや、衝撃とか言うとちょっと違うかな。そこにあるのは、かつて覚えたことのないほどの圧倒的な安心感……ただそれだけでした。
それで、私、その圧倒的な安心感の中で思ったのですよね。
「いつか、地上にいる人全員が、この事実に気づくことになる。生きている間に気づく人もいれば、肉体を離れる間際に気づく人もいるだろう。でもそこに“差”はないんだ。“気づいた”ということ、ただそれだけが大事なんだ。」
「ひとり残らず気づくだろう。“死”の瞬間こそ、“死”が幻想であったことに気づく一番のチャンスなのだから。いや、“チャンス”なんて生易しいものじゃない、これはひとりひとりに自動的に、確実に訪れる“気づき”だ。」
「私たちは、自分たちの“死”をもって、ようやく、目を覚ますことができるんだ。そこに、どんな風に生きて、どんな風に死んだかは一切関係ないんだ。“死”の瞬間、人は、ただただ“気づき”に包まれるんだ。どんな人でも、確実に。」
「無」は、「無」であるがゆえに、誰ひとり置いてけぼりにはしません。
「無」の懐の深さは、文字通り「無限」です。
「無限」、それゆえに、誰かや何かを取りこぼすことなど、決して「無い」のです。いや、できないのです。
「生」は、「無」を母体として生み出された、「有」という幻想の総称です。
私たちの肉体をはじめとするすべての「有」は、「無」と離れて存在することはできません。
すべての存在の正体は、「無」そのものなのです。
そもそもすべてが「無」から生じたものであるのなら、「無」の世界に還ることのできない存在など、あるわけがないのです。
肉体という幻想から目覚めた瞬間、「おかえり」の声が聞こえるかもしれません。
それはひどく懐かしく、そして泣きたくなるほどにあたたかな感触をもって、あなたの耳に届くことでしょう。
「無」の世界はいつだって私たちひとりひとりを待っています。
懐かしく、あたたかなその場所に、「ただいま」を言えない人なんて、ひとりもいないのです。
「無に還る」ことを「成仏」と言うのなら、それに失敗する人はいません。
「じゃあ“幽霊”と呼ばれる存在はどうなるのさ!?」と言われたら、「それはあなたが作り出したものですよ」と答えます。
死んだ人は、確実に「無」の世界にくつろいでいます。不安にまみれて生きていたときには決して味わうことのできなかった圧倒的な安心感の中で、ゆったりと笑っています。(いや、「無」の世界には個別の肉体がないので、“笑う”というのも変な表現ではあるのですが……。でも、まあ、エネルギーの動きとしては、そんな感じ。)どんなに「悲惨な」亡くなり方をした人でも、かならず、です。成仏できない人なんていない。ゆえに、幽霊なんかいるわけがない。
「あんな死に方をして、あの人も浮かばれないよ……」とか、「志半ばで亡くなってしまって……さぞ悔やんでいることでしょう」とか、そんな風に考えるのは、いつだって生きている側の人間です。
何度も言いますが、死んだ人は確実に「成仏」します。
彼らを暗く悲しい幽霊にしてしまうのは、いつだって生きている側の人間です。
死んだ人の想念が残って幽霊になるんじゃないんです。
生きている人の、死んだ人に対する想念が、幽霊を作り出してしまうんです。
お葬式や追善供養は、生きている人の心の整理のための儀式です。死んだ人を「成仏」させるための儀式ではない。だって、彼らはすでに安らかな場所にいるのだから。それは確実なのだから。
これらの儀式は、つまり、生きている人「が」、死んだ人「を」、幽霊にしてしまわないために行われるものなのだと思います。
かなりぶっ飛んだことを書いてしまったような気もしますが……。
でも、まあ、これは単純に、「すべての人が成仏できる世界」と、「成仏できずに幽霊になってしまう可能性のある世界」と、あなたはどちらの世界が好きですか? どちらの世界に住みたいですか? というお話、と言うこともできます。
どちらを選んでも良いのだとしたら?
選んだ瞬間から、望んだ世界が眼前に展開されます。