となえずとも仏もわれもなかりけり

2017年2月1日

おはようございます。小出遥子です。

昨日の夜は神谷町の光明寺さんでTempleを開催させていただきました。
ご参加くださった方、ほんとうにありがとうございました。

フラットな「いのち」の対話の場としてのTemple。
参加されたみなさんの表情を眺めながら、
「こういう場があってよかったなあ」
……なんてことをしみじみ思いました。
いや、毎回(ほんとうに毎回)思っているのですが。
こんな風に思えるイベントを開かせていただけるご縁に感謝です。
これからも続けていきたいと思います!

次回は2月12日(日)に鎌倉の円覚寺さんで開催します!
ご興味のある方、ぜひお気軽に遊びにいらしてくださいね。

Temple@円覚寺
http://temple-web.net/event/33/

さて、今日は念仏のお話をします。

時宗の開祖・一遍上人の歌に、

となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏

というものがあります。

文字通り、自分と仏との間に区別のない、
「自他一如」の境地(「境地」でもないのですが……)をよんだ歌ですね。

でも、大変恐れ多いことではありますが、
私としては、この歌をこんな風によみ替えたいんです。

となえずとも仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏

語呂の悪さには、ごめんなさい、目をつぶっていただいて……(笑)。

以前から何回か書いてきたと思うのですが、
私、最近、いよいよこんな風に思うのです。

南無阿弥陀仏は、「となえる」というよりは、
圧倒的に「聞こえる」ものだなあ、って。

もちろん、口に出してとなえることだってあるし
(それが一般的な意味での「念仏」ですよね)
その場合「となえる」と「聞こえる」は同時なのですが、
それ以前に、ありとあらゆるすべてのものが
南無阿弥陀仏として聞こえているなあ、って。

この場合の「聞こえる」は、耳だけを使った「聞こえる」ではないのです。

だから、たとえば、
「見える」というかたちで南無阿弥陀仏が聞こえているし、
「触れる」というかたちで南無阿弥陀仏が聞こえているし、
「感じる」というかたちで南無阿弥陀仏が聞こえている……。

自分が南無阿弥陀仏をとなえてもとなえなくても、
すでにすべては南無阿弥陀仏として「聞こえ」ているのです。

だからやっぱり、

となえずとも仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏

なのです。

いや、「だからなんだ!?」と問われたら、
「なんでもありません……」と答えるしかないのですが、
とにかく、これが、現時点での、私自身の念仏観です。

一般的な念仏理解とは大きく食い違っているかもしれません。
それでも、私は、ここに「安心(あんじん)」の声を聞くのです。
だから、ゆったりとした気分で、「これでいいのだ」と思っています。

そうそう、「南無阿弥陀仏」を超訳するとしたら、
「これでいいのだ」になりますよね(笑)。

おおらかな、南無阿弥陀仏の世界が、好きです。

赤塚不二夫さん、生きてお会いしたかったな……。

 

よい一日をお過ごしください◎