祝・重版出来!&「物語を超える」とは?

2017年1月24日

おはようございます。小出遥子です。

さて、今日はめーちゃめちゃうれしいお知らせがあります!
拙著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』
このたび、重版決定しました!!!

うれしすぎます!!! 涙出ます!!! ま・じ・で!!!

ほんとうに、みなさまのおかげです。
「おかげさま」の五文字を噛みしめています。

本を買ってくださる方がいるから、本が売れるんだよなあ……。みつを

って、至極当然なことなのですが……。
あらためて、ありがたいことだなあ、と……。

みなさん、ほんとうにありがとうございます。
全方位に合掌です。

なむなむ……。

私、実は明日25日が誕生日なんですけれど(さりげなく宣伝)、
帯の「32歳仏教女子」が詐称になる前に重版が決まって良かったなあ、と。
というのは、まあ、どうでもいいとして(笑)。
とにかく、ありがたいことです。

Amazonでは数日前から品切れになっていますが、
編集者さんいわく、明日25日に補充されるそうです。
重版分は2月8日発売。
わくわくします!

みなさま、どうか、引き続き応援いただけますとうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします◎

さて、通常のブログに戻ります。

今日は「物語」についてお話ししようと思います。

個別の人間として生きていくということは、
どうしようもなく個別の物語を生きていく、ということです。

個というのがそもそも物語の中のものなのだから、
それは仕方ないんです。

人間、やっぱり、どこまで行っても「個人」です。
小出遥子は小出遥子の人生を歩まないといけない。
鈴木健太郎さんや(誰だ)高橋麻美さん(誰だ)の人生を
私が歩むことはできないんです。当然ですけれど。

でも、ほら、よくね、
「個別の物語を超えたところに、ほんとうの自由がある」
とか言いますよね。私も言いますけれど。
あれはどういうことなのか、というのをこれから解説します。

ここで注意が必要なのは、
物語を「否定する」でもなく、「壊す」でもなく、
「超える」ということばを使っているところなんです。

事実、「あ、ぜんぶ物語だった!」と理解したところで、
物語の生成を止めることはできません。
縁の中に生かされている限り、物語の外に出ることはできないんです。

「物語を超える」というのは、
人間、どうしようもなく物語を生きていかなくてはならない
という事実を認め、まるごと受けいれ切ったところからにじみ出す
「慈悲」という名の「理解」を生きていく、ということです。

自分も、他人も、どうしようもなく物語世界の住人であって、
それぞれに、それぞれの人生を生きている。

ただ、それだけ。
そこに良いも悪いもなくて、ほんとうに、ただ、それだけ。

でも「それだけ」であることを知れば、
視野は広くなりますよね。

自分の生きている「これ」もひとつの物語でしかない。
あなたの生きている「それ」もひとつの物語でしかない。
「物語を超える」ことすら、やっぱりひとつの物語でしかない。

そういう風にして、ひとつひとつの物語を認めていった先に、
ふいにこだわりがほどけて、呼吸が少し楽になって、
安心感をベースに生きていくことを
自分に許可できる瞬間がやってくるかもしれない。

そんなことを思います。

 

よい一日をお過ごしください◎