枠なんかどこにもないのに

2016年9月25日

みなさん、おはようございます。小出遥子です。

昨日は、「仏教的人生学科・一照研究室」という、
曹洞宗の藤田一照さんの仏教塾の、2016年後期スタートの日でした。

去年の春からスタートしたこの塾で、私は、毎回、講義録を作らせていただいています。
で、ちゃっかり自分の学びにしちゃっているわけですが(役得とはまさにこのこと!)、
いやー、昨日の講義もアツかった……。多くの気づきをいただきました。

昨日の講義の中でも一照さんがおっしゃっていましたが、
私が今回、あらためて強く思ったのは、
「日常の中に仏法があるわけではなくて、仏法の中に日常がある!」ということ。
仏法は文字通り「すべて」であって、そこからはみ出るものなんてないんですね。

(ちなみに、ここでいう「仏法」を、Templeでは「いのち」ということばで呼んでいます。)

小出遥子という人物もね、よく「仏教ライター」とか、あとは「仏教女子」とか(笑)
そういう枠の中に入れられて語られることが多いんですね。
まあ、それはそれで便宜上のこととしてぜんぜん良いのですが、
(むしろ「女子」と呼ばれてよろこぶ32歳……)
ただ、そもそも「仏教」って、ひとつのジャンルなんかじゃないんだよなあ……
っていうのは、ほんとうによく思うことで。

昨日のBlogに書いたお話にもつながっていきますが、
仏教という指が指し示しているのって、
思考以前、言語以前に、ただ「ある」世界 なので。
意味によって区切られる以前の、もとの世界 と呼んでもいいかな。

私たちは、ほんとうは最初からその世界にいるんですよね。
いま、この瞬間も、間違いなく、そこにいる。
ただ、その自覚がないだけで。

一照さんは
「そっちの方向(本来的な世界のあり方、分断ではなくつながり的なあり方)を
向いて生きていたら、なにをしていてもそれは仏教になりますよ」
とおっしゃっていましたが、ほんとうに、そういうことなんですよね。

「仏教」というのは、決して特殊な一ジャンルの話じゃない。
そんなケチくさくて狭苦しい話じゃないんです。

だから、つまり、「坐禅しているときだけ仏教」とか、
「念仏となえているときだけ仏教」とかいうのは、
実は、め~ちゃめちゃ大きな勘違いですよ~! ということです。

もちろん、坐禅や念仏は仏教(仏法)の大切な表現だけれど、
決してそれだけが仏教というわけではない。
「本来的ないのち」を生きていることに自覚的であれば、
仕事をしていようが、人と話していようが、ご飯を食べていようが、
お風呂に入っていようが、トイレに入っていようが、ネットサーフィンに興じていようが、
それはすべて「仏法」の中で行われていることであって、
そこからはみ出るということは決してない。

おおらかな話なんですよね。ほんとうはね。
でも、あまりにもおおらかすぎて、とっかかりがなさすぎて、
「意味わからん!」「どげんかせんといかん!」みたいになっちゃった人が、
「正しい坐禅をしなければ仏教とは認めん!」とか、
「念仏を○万回以上となえたことがなければ本物とは呼ばん!」とかいう風にして、
「仏教」を狭苦しい枠の中に押し込めちゃったんだろうな……と。

枠なんかほんとうはどこにもないのにね。
そのことに気づいた人から、生きやすくなっていくんじゃないかな。

そんなことを思います。

「仏教的人生学科・一照研究室」は、今期は少しだけお席に余裕がありますよ。
単発受講も受け付けているので、ご興味がある方、ぜひふるってご参加ください。
ともに学びを深めていきましょう。

http://fujitaissho.info/kenkyushitsu

 

お読みくださってありがとうございました。

よい一日をお過ごしください◎