ぜんぶ自分が「願った」こと?

2014年10月2日

「目の前に起こることは、すべて自分が願ったことだ」

 

って、結構よく聞く話ですよね。いや、「願った」とか言うと、なんだかものすごく言葉が強いけれど……。私もこのブログの中で「自分の中にあるものしか見えない(自分の中にないものは見えない)」とか、何度も何度も繰り返していますけど、あと、「外側に見えるものは、すべて自分自身の反映だ」とかね、そういうのと、まあ同じことですよね。

 

でもね……これ、自分でもさんざん言っておきながら、「キツイなあ……」って思うこと、正直、めちゃめちゃあります。だって、どう考えても「願った」覚えのない事象が目の前で展開することも、多々ありますから。

 

たとえば、日々見聞きするつらいニュースなんて、その最たるものですよね。悲惨すぎる災害とか、残酷すぎる犯罪とか……。これもぜんぶ自分の中にあるものなのか? 自分が願ったことなのか? そんなわけないじゃん! ていうかそんなことがあってたまるか! って暴れまわりたくなること、私にも、あります……。

 

でも、どんなに暴れまわったところで、その「真実」は決して変わらなくて。私たちは、真実、自分の中にあるものしか、外側の世界に見ないのですよね……。そこから逃げることはしちゃいけない。逃げたら何にもならない。踏みとどまって、「認める」ことからはじめないと、事態は永久に変わらない。

 

でもね、その「認める」という作業に、善悪の判断を持ち込むと、自分をひどく苦しめることになる。

 

こんなひどいことが自分自身の反映だなんて……自分ってなんてひどいやつなんだ! なんて恐ろしいやつなんだ! とか……。

 

でも、そんな風に思う必要は、本当に本当に本当に、まーーーったくなくて。

 

それはただ、「そういうもの」として、不必要に感情的にならず、淡々と処理されるべきものなのだと思う。

 

だって、たぶん人間は、どんな存在でも、まったく平等に、「自分自身」の中に、「善」的なものと、「悪」的なものを、きっちり半分ずつ、資質として持っているものだと思うから。「善」しかない人もいなければ、「悪」しかない人もいない。そのどちらに注目して、「行動」として表に出すのか。それだけが、「聖者」と呼ばれる存在と、「悪人」と呼ばれる存在とを分けているのだと思う。

 

私だけが、あなただけが、特別なわけじゃない。みんな条件は同じです。

 

ここを理解することが、自分自身を救い出す大きな一歩になるのかな……。

 

 

 

でもでもでも! そうは言っても、キツイんだよ! つらいんだよ! どう考えても自分が「願った」覚えのないことを、これ以上見聞きしたくないんだよ~~~!

 

というときの積極的な対処法として挙げられるのは、

 

「瞑想」

 

だと思うのですよね。

 

 

 

「瞑想」によって、自分自身を「いま」に置くこと。

 

根本的な解決は、実際、そこにしかないような気がしています。

 

 

 

 

 

ちょっと長くなりそうなので、続きはまた明日、詳しく書こうと思います。