「私を生きながら、同時に私を見つめるいのち」の話

2017年1月19日

おはようございます。小出遥子です。

昨日のブログ

大きな大きないのちは、
私を盛大に生きながら、私を静かに見つめているんです。

と書きましたが、今日はその補足説明です。

その、「私を生きながら、同時に私を見つめるいのち」というのを、

たとえば浄土系仏教では「南無阿弥陀仏」あるいは「阿弥陀如来」と呼ぶのでしょうし、
たとえば禅では「仏心」とか「本来の面目」とか「無為の真人」とかと呼ぶのでしょうし、
たとえば法華では「久遠実成の釈迦」と呼ぶのでしょうし、
たとえば真言密教では「大日如来」と呼ぶのでしょう。

そして、それを、たとえばキリスト教では「神」あるいは「愛」と呼ぶのかもしれない。

ことばが違うだけで、みんな同じいのちを指しているのだと、私は思っています。

The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.
(私が神を見るその目と、神が私を見るその目は同じものある。)

これは中世ドイツの神学者、マイスター・エックハルトのことばです。
同じ世界観ですね。

あと、宗教のことばではないけれど、
私の大好きな作家の吉本ばななさんは、小説の中でこんな風に表現されていました。

世界と私はいつものようにきらきらとした目でお互いを賞賛し合い、見つめ合っていた。

そうそう、こっちが見ているだけじゃない。向こうも見ているんだ。

その目はどこにあるかというと、天に大きな目が浮かんでいるっていうわけじゃない、

なぜか私の中にあるのだ。

私の中にあるもうひとつの目が、世界の側にとって力を取り入れる窓なのだ。だから私がどういうふうに世界を見るかを世界は見ている。

そのことを昔の人はうまく言いようがなくて神様と呼んだんだなあ、そう思った。

だからなるべく円満に、命に賞賛をこめて、今日も一日を生きる、私はそんなことを選んだのだ。この世の隅っこにあるこの小さな村で、ちっぽけだけど偉大なことを。

(『花のベッドでひるねして』よしもとばなな=著 毎日新聞社=刊 より抜粋)

素敵ですよね。
みんなみんな、同じことを言っているのだと思う。

ことばで考えると矛盾するようなことが、なんの不思議もなく同居している。
そんな不思議ないのちを、私たちは、いま、この瞬間も、生きている。
いや、そんな不思議ないのちが、私たちを、生きている。

だから、ほんとうに、いつだって「大丈夫」なのだと思う。

 

よい一日をお過ごしください◎