続・「ただしい」より「たのしい」を!

2017年1月17日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、「ただしい」より「たのしい」を!
という記事をアップしたら、まあまあ反響がありました。

ある方からいただいたコメントを転載しますね。

ある意味「Post Truth」ですよね。
真実や正しさよりも、
楽しいものや、スッキリするものを支持するという流行です。
自他を満たしていくような楽しさであればいいのですが、
そうでない場合は、危険な面もあります。
宗教者としては、多面的な視野で、考えなくてはいけないと思っています。

おお……。
私は流行に乗っていたのか! 知らなかったぞ!

というのは冗談として(笑)。
なるほど、とても考えさせられるご意見です。
Sさん、ありがとうございます。

ふーむ、「Post Truth」ねえ……。

「真実や正しさよりも、
楽しいものや、スッキリするものを支持する」

こういう態度が、いま、世間的に流行っているのですね?

まあ、言わずもがな、ではありますが、
「たのしい」ことが「ただしい」ことなのです!
とは、私は言っていないです。
そうなったら本末転倒も甚だしいですからね。

あと、「真実」に代わるものとして
「たのしさ」を求めるというのは、
コメントをくださった方もおしゃっているように
ちょっと「危険」かな? と思っています。
だって、それって結局二項対立を脱しきれていないですから。

そのままなにか大事なものを「見て見ぬフリ」しながら
物事を押し進めると、後に大きなひずみとなって
自他を傷つけるようなことにつながってしまうのだと思う。

たぶん、すべてを自分の頭の中だけで完結させようとすると、
「たのしさ」すら「正しさ」に姿を変えて、
話がおかしくなっていくのではないかなあ……。

人間、ほんとうに、肚の底からたのしいことをしているとき、
そこにはすでに「真実」や「他者」が内包されているはずなんです。

だって、ほんとうに「たのしい」ことをしているとき、人間は、
全身全霊で、大きな「つながり」の中にある自分を感じるというか、
「つながり」こそが自分である、と、理屈を超えてわかるから。
その感触はほんとうにリアルなので、気づけない人はいないと思う。

逆に言えば、その感触がない「たのしさ」に関しては、
徹底的に疑った方がいいです。

私、いま、頭だけで考えられた「たのしさ」に
はまりこんでいないかな? って。

いや、はまってしまってもいいんです。
人間だもの、そういうときだってあります。
(私だってめちゃめちゃあります!)
それに気づいたのなら、そこから仕切り直せばいいんです。

そうやって、トライアルアンドエラーを繰り返しながら、
自分にとって、そして結果的には他者にとっても大切な
その時々の「たのしさ」を探っていって、それを大切にしながら、
瞬間瞬間を生きていけばいいのだと思う。

本気で、そう思っています。

 

よい一日をお過ごしください◎