いのちは誰にとっても自分事

2017年1月14日

おはようございます。小出遥子です。

本日、当サイトのDialogueコーナーに、
鎌倉・円覚寺の横田南嶺老師との対話記事をアップしました。

横田老師のおことばのひとつひとつがほんとうに素晴らしくて……
とにかく、ひとりでも多くの方にお読みいただきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

今回も、「いのちからはじまる話をしよう。」ということで
対話をさせていただき、それを記事にまとめたのですが……。

このあたりで、もう一回、
どうして「いのちからはじまる話をしよう。」なのか、
あらためてお話をさせていただきたい、と思っています。

Templeって、もともとは「ほんとう」というキーワードを
中心に据えたプロジェクトだったんです。

「ほんとうに触れて、自由を生きよう」って。

その精神自体は、いまのTempleにもそのまま受け継がれています。

でも、「ほんとう」っていうことばは、
ちょっと厄介な性質を持っているんですよね。

私がここで言いたかったのは、
対極に「ほんとうじゃないこと」を置かない、
二元を超えたところにある「ほんとう」だったのですが、
やはり、人間、どうしたって、「ほんとう」と聞けば、
反射的に「ほんとうじゃないこと」を思い浮かべてしまうもので……。

そうすると、まあ言うなれば、
「ほんとう合戦」みたいなことが起こってきてしまうんですよね。

「俺の語りこそが“ほんとう”をあらわしている!」とか、
「あいつの言うことは“ほんとう”じゃない!」とかね。

「ほんとうのこと」と「ほんとうじゃないこと」が生まれてしまうのも、
「ほんとうのことを知っている人」と「そうでない人」が生まれてしまうのも、
なんというか、非常につまらないな、と。
それって、Templeという場の持つ精神とは、大きく異なってくるんじゃないかな、と。

そもそも、私たちは、
まぎれもなく「なにものでもないいのち」そのものです。
「差」なんて、思考の産物であって、ほんとうはどこにもないんです。
その事実を思い出すための場として、Templeを位置づけたい。

それならば、誰にとっても「自分事」として話ができる
「いのち」というテーマを、もう、堂々と中心に置いてしまおう、と。
そこから開けてくる世界を味わっていこう、と。

そういうところから、
「いのちからはじまる話をしよう。」なんです。

みな、間違いなく、生きていますからね。
生きている、ということは、
いのちと切り離されていない、ということですから。
その点に関して、ひとつとして「差」はないんです。

そういうのが、いいなあって。

横田老師との対話、おたのしみいただければさいわいです。

 

よい一日をお過ごしください◎