おはようございます。小出遥子です。
以前、念仏のメカニズム(というかなんというか……)について
以下のように書きました。
「南無阿弥陀仏」って、まあ、「となえる」ものだと思われていますよね。
自分が、自分の意志をもって、自分の口で、となえるものだ、と。うん。
それは、それで、ひとまずいいんです。で、大事なのはここからで。
「南無阿弥陀仏」って、口でとなえますよね。
そうしたら、それとまったく同時に、
「南無阿弥陀仏」って、耳に入ってきますよね。これ、まったく同時ですよね。
「即」ですよね。
一切のタイムラグが、ないですよね。ここが、いちばんのポイントなんじゃないかと思うんです。
「となえる」の方は、さっきも書いたけれど、
自分の意志によってなされる行為(っぽい)ですよね。でも、「聞こえる」は?
そこに、自分の意志、ほんとうにありますか?どうかな?
不思議だと思いませんか?
「聞こう」と思う間もなく、
すでに「聞こえる」ということが起きていた。
しかも、「となえる」と同時に起きていた。この一瞬の出来事の中に、なにかをしている「自分」はいたかな?
ほんとうにいたかな?
そこを吟味していく中で、
となえる私も、聞く私も、ひとつにとけて消えていく……
ということが起こってくるのかもしれない。(当ブログ2016/11/17より抜粋)
念仏のキモは、「となえる」と「聞こえる」の同時性にある!!!
この解釈は、2か月経ったいまでも(そんなに経ってないか!笑)
まったく変わっていません。
これに関して、先日、またあらたなひらめきがあったので、
今日はそのあたりを書いてみようと思います。
「南無阿弥陀仏」は、
こちら(人間)側からの呼びかけでもあり、
また、同時に、
あちら(仏)側からの呼びかけでもある。
……といった解釈は、割とよく聞くし、
それは素直に「そうだよね」とうなずけます。
ここでちょっと思ったんです。
その「南無阿弥陀仏」という呼びかけには、
それぞれ、「ただいま」と「おかえり」という訳語が
そのままあてられるんじゃないかな、って。
口でとなえる「南無阿弥陀仏」=「ただいま」
耳から聞こえる「南無阿弥陀仏」=「おかえり」
そして、それらの呼びかけは、
自分不在のままに、
まったく同時に起こっている。
いまここにおいては、
「こちら」も「あちら」もなく、
「人間」も「仏」もなく、
ただただすべてがあるがままにある。
「あるがままのいまここ」に「ただいま」。
「あるがままのいまここ」に「おかえり」。
念仏って、あたたかいなと思います。
他力の世界は、あたたかいです。
よい一日をお過ごしください◎