「ただいま」と「おかえり」と「南無阿弥陀仏」

2017年1月13日

おはようございます。小出遥子です。

以前、念仏のメカニズム(というかなんというか……)について
以下のように書きました。

「南無阿弥陀仏」って、まあ、「となえる」ものだと思われていますよね。
自分が、自分の意志をもって、自分の口で、となえるものだ、と。

うん。
それは、それで、ひとまずいいんです。

で、大事なのはここからで。

「南無阿弥陀仏」って、口でとなえますよね。
そうしたら、それとまったく同時に、
「南無阿弥陀仏」って、耳に入ってきますよね。

これ、まったく同時ですよね。
「即」ですよね。
一切のタイムラグが、ないですよね。

ここが、いちばんのポイントなんじゃないかと思うんです。

「となえる」の方は、さっきも書いたけれど、
自分の意志によってなされる行為(っぽい)ですよね。

でも、「聞こえる」は?
そこに、自分の意志、ほんとうにありますか?

どうかな?

不思議だと思いませんか?

「聞こう」と思う間もなく、
すでに「聞こえる」ということが起きていた。
しかも、「となえる」と同時に起きていた。

この一瞬の出来事の中に、なにかをしている「自分」はいたかな?

ほんとうにいたかな?

そこを吟味していく中で、
となえる私も、聞く私も、ひとつにとけて消えていく……
ということが起こってくるのかもしれない。

(当ブログ2016/11/17より抜粋)

念仏のキモは、「となえる」と「聞こえる」の同時性にある!!!

この解釈は、2か月経ったいまでも(そんなに経ってないか!笑)
まったく変わっていません。

これに関して、先日、またあらたなひらめきがあったので、
今日はそのあたりを書いてみようと思います。

「南無阿弥陀仏」は、
こちら(人間)側からの呼びかけでもあり、
また、同時に、
あちら(仏)側からの呼びかけでもある。

……といった解釈は、割とよく聞くし、
それは素直に「そうだよね」とうなずけます。

ここでちょっと思ったんです。

その「南無阿弥陀仏」という呼びかけには、
それぞれ、「ただいま」と「おかえり」という訳語が
そのままあてられるんじゃないかな、って。

口でとなえる「南無阿弥陀仏」=「ただいま」
耳から聞こえる「南無阿弥陀仏」=「おかえり」

そして、それらの呼びかけは、
自分不在のままに、
まったく同時に起こっている。

いまここにおいては、
「こちら」も「あちら」もなく、
「人間」も「仏」もなく、
ただただすべてがあるがままにある。

「あるがままのいまここ」に「ただいま」。
「あるがままのいまここ」に「おかえり」。

念仏って、あたたかいなと思います。
他力の世界は、あたたかいです。

 

よい一日をお過ごしください◎