宗教体験について

2017年1月8日
15937321_1254114337999441_7479918398651824116_o

おはようございます。小出遥子です。

昨日は下北沢のB&Bさんで、
拙著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』
出版記念イベントがありました。

お越しくださったみなさん、ほんとうにありがとうございました!

私はほとんどビール飲んでいい気分で酔っ払っているだけでしたけど
(だめじゃん……!)
釈徹宗さんと藤田一照さんの語り、ほんとうに素晴らしかったですねえ。
ずっとずっとお聞きしていたい気分でした。

みなさんにもおたのしみいただけたのならさいわいです。

さて、イベント内の質疑応答コーナーで、
こんな問いかけをいただきました。

「一照さんも、徹宗さんも、遥子さんも、みなさんそれぞれに、
特別な宗教体験のようなものをお持ちのようです。
しかし、そういったはっきりとした特別な体験の記憶がない僕には、
今後、どういう風に仏教をしていけばいいのか、
途方に暮れてしまうようなところがあります。」

この質問をいただいて、私はとても考えさせられ、
そして、同時に、なんだか申し訳ないような気分になってしまいました。
私自身にはそんなつもりはなかったけれど、
そうか、確かに、私の本を読んで、そういう感想をお持ちになる方が
いらっしゃっても、ぜんぜんおかしくはないだろうな……と。

「宗教体験」って、ほんとうに扱いが難しいものだと思うんです。

確かに、私の人生には、
はっきりと自覚できる大きな体験というか、
宗教的転機のようなものがありました。

それをきっかけに、さらに仏教の説く「真ん中」の部分への
理解が大きく進んだことは確かだと思います。

でも、それは、あくまで「きっかけ」に過ぎなかったんです。

もちろん、私は非常に未熟な人間なので、
体験直後は、若干……というか、かなり、調子に乗りました(笑)。

「やったぞ! 私はついにさとったぞ!」って。

でも、当然だけど、体験後も「人生」は続いていくんです。

そして、体験があろうがなかろうが、
変わらず、「人生」は自分の思い通りにはならないんです。

その「思い通りにならなさ」が、結果として、私を謙虚にさせました。

「私には、仏教に学ぶことが、まだまだたくさんあるな」って。

私の、ほんとうの「仏道」は、そこから始まったように思うのです。

結局、宗教体験だって、ひとつの「きっかけ」に過ぎないのですよね。
それは「ゴール」ではなく、むしろ「スタート」だった。

そして、道を歩み始めるきっかけとなるべき出来事は、
なにも宗教体験と呼ばれるようなものに限らず、
ご縁の網目の中で、無数に存在しているのだと、
私は、いま、確信しています。

昨日、この質問をくださった方だって、
こうして私の本に出会って、
昨日のイベントにお越しくださっている時点で、
もう十分立派に仏道を歩まれているわけです。
なにか特別なきっかけがあったわけではなくても、
すでに、その方の行動の中に、
間違いなく、仏の姿はあらわれているわけです。

私は、そこに、かけがえのない尊さを見ます。

ただ、いまここにおいて、一歩一歩を、謙虚に、真摯に生きていく。
そこに仏道と呼ばれるものが出現する。

それ以上のことなんか、ほんとうにどこにもないのだと思います。

 

よい一日をお過ごしください◎