おはようございます。小出遥子です。
今日は大尊敬する高山なおみさんの素敵な文章の引用から。
洗濯ものを干していて、ふと思った。
ていねいな暮らしとか、ていねいに生きるとか、ひところよく言われていたけれど、私はずっとへんてこりんな感じがしていた。
掃除をきちんとしたり、規則正しく生活したり、料理をこしらえてちゃんと食べたりすることは、「ていねいに」ということと、簡単には繋がらないような気がしていた。
そういう、人がすることではないような、もっと大きなものに寄り添うこと。
もしも「ていねいに」ということが、生きることのなかであるとしたら、毎日のなかにいてとても大きく変わっていくお天気のようなもの、人知でははかりしれないようなものごとを、しっかり受け止め、感じること。
ごはんをちゃんと作ろうとしたり、掃除をしなくちゃと焦ると、見逃してしまうようなこと。
だから、ごはんをきちんと作らなくても、掃除をしっかりしなくても、寝坊しても、ぐだぐだと暮らしても、引きこもっても、ていねいに生きられる。
どうなんだろう。(「日々ごはん」2016年12月24日の日記より抜粋)
おおお……。
溜飲が下がる思いとはまさにこのこと。
高山さんのしなやかなお考えに、とても感動しました。
「ていねいに」ということが、生きることのなかであるとしたら、
毎日のなかにいてとても大きく変わっていくお天気のようなもの、
人知でははかりしれないようなものごとを、
しっかり受け止め、感じること。
思わず重ねて引用してしまったけれど……。
もう、ほんとうに、これに尽きるのではないかな。
人間が小賢しく考えて器用に立ち回ったところで
絶対的に力の及ばない「なにか」。
その「なにか」の存在(存在、でもないのだろうけれど)を感じながら、
ただただ「いまここ」を謙虚に生きていくこと。
人間になにかできるとしたらほんとうにそれだけだし、
逆に言えば、それさえできたのなら「大丈夫」なのだと思う。
それこそ、
「ごはんをきちんと作らなくても、掃除をしっかりしなくても、
寝坊しても、ぐだぐだと暮らしても、引きこもっても」
絶対的に、「大丈夫」なのだと思う。
「マインドフルに生きる」って、こういうことなんじゃないのかな。
……ちょっと短いけれど、
高山さんの文章にすでにすべてが語り尽くされている気がするので、
私はこのあたりで引っ込みます。
よい一日をお過ごしください◎