時折、死んだ人の目、そのものになって、空中に浮いている自分を発見することがある。幽体離脱、とかではなく、ただただ、「目」そのものになって、この世のすべてを眺めているのだ。たいていの場合、なんの前触れもなく、それは起こる。
まるっきり死んだ人の目線で眺めたこの世界は、まるではじめてそれを見るかのようにすべてがあたらしく、そして、とてつもなく愛おしい。
「しあわせじゃなかったことなんか、一度もなかったな。」
ふいにそんな風な感慨に支配されて、死者の「目」そのものとなった私の目からは、涙があふれてくる。
まったくもって、この世界のすべては、「しあわせ」そのものでできているのであった。
今朝もベッドから離れてカーテンを開け、窓を開けて、窓辺の椅子に腰かけ、ぼんやりと外を眺め、雨の音を聴きながら白湯を飲んでいるとき、ふいに、また、それがやってきた。
この世界は、しあわせで満ちていた。
しあわせでないものなど、ひとつもなかった。
私たちの本質は、しあわせそのものだった。
しあわせが形を持ってあらわれたのが、わたしたちひとりひとりなのだった。
しあわせそのものである私たちが、しあわせになろうとして、あくせくしている。
そんなあまりに「滑稽」な姿すら、たまらなく愛おしいのだった。
死者の目線は、イコール、神の視線、仏の視線、なのかもしれない。
だとしたら……
神さまは、仏さまは、人間を愛しているに違いない。
そんな風に思う。
しあわせじゃなかったことなんて、一度もなかった。
だって私たちは、しあわせ、そのものなのだから。
その事実を、紛れもない事実として認めることを自分自身にゆるしてはじめて、
人は、「しあわせ」を知ることができるのだろう。
雨の月曜日。
今週もまた、生きて、遊んで、生きていきましょう。