しあわせじゃなかったことなんて、一度もなかった。

2014年9月1日

時折、死んだ人の目、そのものになって、空中に浮いている自分を発見することがある。幽体離脱、とかではなく、ただただ、「目」そのものになって、この世のすべてを眺めているのだ。たいていの場合、なんの前触れもなく、それは起こる。

 

まるっきり死んだ人の目線で眺めたこの世界は、まるではじめてそれを見るかのようにすべてがあたらしく、そして、とてつもなく愛おしい。

 

「しあわせじゃなかったことなんか、一度もなかったな。」

 

ふいにそんな風な感慨に支配されて、死者の「目」そのものとなった私の目からは、涙があふれてくる。

 

まったくもって、この世界のすべては、「しあわせ」そのものでできているのであった。

 

 

 

 

 

今朝もベッドから離れてカーテンを開け、窓を開けて、窓辺の椅子に腰かけ、ぼんやりと外を眺め、雨の音を聴きながら白湯を飲んでいるとき、ふいに、また、それがやってきた。

 

 

 

この世界は、しあわせで満ちていた。

 

しあわせでないものなど、ひとつもなかった。

 

私たちの本質は、しあわせそのものだった。

 

しあわせが形を持ってあらわれたのが、わたしたちひとりひとりなのだった。

 

 

 

 

 

しあわせそのものである私たちが、しあわせになろうとして、あくせくしている。

 

そんなあまりに「滑稽」な姿すら、たまらなく愛おしいのだった。

 

 

 

 

 

死者の目線は、イコール、神の視線、仏の視線、なのかもしれない。

 

だとしたら……

 

神さまは、仏さまは、人間を愛しているに違いない。

 

そんな風に思う。

 

 

 

 

 

しあわせじゃなかったことなんて、一度もなかった。

 

だって私たちは、しあわせ、そのものなのだから。

 

 

 

その事実を、紛れもない事実として認めることを自分自身にゆるしてはじめて、

 

人は、「しあわせ」を知ることができるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

雨の月曜日。

 

今週もまた、生きて、遊んで、生きていきましょう。