私たちは、「海」そのもの。

2014年8月29日

毎朝ブログを書いていると、ときどき、言葉の上で「矛盾してない!?」と思われてしまっているんだろうな~といったことがあって、「昨日と書いていること、違わない!? ヤバくない!?」とかね、それで、う~~~む……となってしまうこともあるのですが。

 

たとえば、

 

・人の命には限りがあります。

 

と書いた、その舌の根(指の根?)も乾かないうちに、

 

・人は死にません。そもそも生まれていないから。

 

とか、大真面目に書いているわけです、私。

 

これ、本当に言葉だけ見ると完全なる矛盾、小出遥子ヤバいやつ! と思われても仕方のない感じなのですが……。

 

が! んが!(鼻濁音) しか~し!

実はこれ、私の中ではな~~~んの矛盾もないのですね。

 

どこに光を当てて書いているのかが違うだけで、私としては、毎朝、ま~~~ったくひとつのことだけを表現しているつもりなのです。

 

(もちろん、私自身の表現が未熟すぎて、誤解を与えてしまっているような部分は多々あると思うのですが……。そこは伏して謝ります。ごめんなさい。)

 

今日はそのあたりのことを書いていきたいと思います。

 

 

 

えーと、その世界(どの世界だ!)ではものすごくよく使われるたとえではありますが……。

 

私たちは、みんなでひとつの「海」です。本当は私もない、あなたもない、彼女もない、彼もない、ただひとつの「海」。「海」そのものが、私たちの正体。

 

でも、私たちは普段、肉体をまとって生活しているわけで、そこから個別の意識というものが生まれるわけですね。私は私。あなたはあなた。彼女は彼女。彼は彼。の世界です。私たちはこの世界こそが「本当」だと思いこんでいるわけです。

 

この個別意識は、海面に生じては消えていく、ひとつひとつの波にたとえられます。

 

大波も小波もあるけれど、そのそれぞれが「意識」を持って、それぞれ切り離されたような感覚を持って、競い合って生きているわけです。「俺の方が高くてすごい!」「私の方が青くて綺麗!」とかね。

 

これが私たちの苦悩の根源。個別意識が恐怖を生み、争いを生むのですね……。

 

でも、いつかはみんな「ざっぱーん」と砕け散って、大海へと溶けていきます。

 

そこでようやく、自分の本当の正体を知るわけです。

 

「あれ? 私って、ひとつの波なんかじゃなくて、海そのものだったんじゃないの?」って。

 

「な~んだ!」って。

 

……というか、波はそもそも「海」という現象の中にある運動のひとつにすぎないので、一回として「切り離された」ことなんかなかったんですね。それなのに、大半の人は、自分が死ぬ(肉体が終了する)その瞬間まで、分離感を持って、「俺が!」「私が!」の世界を生きている……。

 

それこそ幻想だというのに、その幻想の中で、大真面目に苦しみながら生きてしまうわけですね。「生は苦しみだ」とか言ってみたり……。

 

 

 

で。

 

海面はどんなに波が立って荒れ狂っていても、思い切って海に潜ってしまえば、そこにはまた違った世界が展開しているわけです。海底の方に潜っていけばいくほど、そこには、しずかで、ただただゆったりとうねっている世界を見ることができます。海の底は、いつだって、ひたすらに穏やかです。

 

私はここ数年、毎日瞑想をしているのですが、瞑想っていうのは、個別の「波」としての自分の意識を、どんどんどんどん海底の方に潜っていかせるような行為なんだなあ、と認識しています。底に近くなればなるほど、個別の意識はなりを潜め、どんどんどんどん、全体としての自分としての意識が強く出てきます。

 

達人の域になると、わざわざ座って瞑想のポーズなんかとらなくても、普通に生活している中で、意識を海底の方へ持っていったままに、この世界を生きられるようになるそうです……。

 

 

 

そう、それでね。どんどんどんどん潜って、荒れ狂う海面から離れて穏やかな心を取り戻して、それで終わり、めでたしめでたし! じゃないんですね。

 

どんどんどんどん潜っていって、ひとたび海底に降り立ったら、どうなるか! どうなってしまうのか!

 

正解は……

 

「海面」やら「海底」やらの意識すら、吹っ飛んでしまうわけですね~。

 

というか、もうそのときには、上もない。下もない。右もない。左もない。光もない。闇もない。未来もない。過去もない。感情もない。私もない。あなたもない。

 

言葉がない。

 

分離感、というもの一切が、消えてしまって、「それ」そのものだけがある、という世界。

 

海という言葉を使うのならば、もう、「海」そのもの、そのものだけがある、という世界、ですね。

 

 

 

 

 

まとめると……

 

海面に近づけば近づくほどに、「分離」、「時間」、「感情」が強く認識されて、

 

海底に近づけば近づくほどに、上記のものがなりを潜めていく……。

 

そして、海底にタッチした瞬間、海面も海底もなく、すべてが統合されて、「海」そのものとしての自分があらわれ出てくる。

 

ってことですね。

 

 

 

「海」そのものとなった「私」は、もはや言葉というものを持ちません。

 

言葉は、分離の世界に属するものだから。

 

 

 

でも、私は言葉を使うしか能がない人間なので、「海」そのものの自分、つまり「海」そのものの私たち、というものを、伝えよう、共有しよう、と毎朝踏ん張っているわけです。

 

その時点で「矛盾!!!」なのですが……。

 

 

 

言葉では、「それ」そのものを伝えることはできません。でも、「海」としての自分の存在をものすごくリアルに感じながら、なにかを書くことはできます。

 

それでも、言葉にした途端に、それは、「海面に近いところ」、もしくは「海底に近いところ」、またはその中間、そのいずれかに位置するものになってしまいます。

 

だから、冒頭に挙げた例で言えば、

 

・人の命には限りがあります。

 

と言うときには、それは「海面」に近いところに光を当てた言葉となります。

 

反対に、

 

・人は死にません。そもそも生まれていないから。

 

は、完全に、「海底」部分の言葉ですよね。というか、もはや「海」そのものの言葉なんですが、でも、言葉というツールを使っている時点で分離感を生じさせてしまう、という点で、やはり「海底」部分の言葉ということしかできなくなるのかな……。

 

でも、いつだってそこには、「海」そのものとしての自分がいるんです。どんな言葉を使っていても。必ず。

 

 

 

「海」そのものとしての自分を伝える、共有するために、言葉を使う。でもそれが結果、「海面」もしくは「海底」の間にあるどこか「だけ」を指すという結果を生んでしまうのは……。

 

いや、それでも、書きますけどね。

 

書きますが、でも、言葉とはなんとあやういものであるか……と思います。ゆえに、愛おしい、のですが。

 

これも私のカルマってやつか……。

 

 

 

まあ、いいや!(いいのか!)

 

 

 

そんな感じです。(乱暴なまとめ方!!!)

 

 

 

 

 

ところで、私、今日の記事を書きながら、ワタツミさまという神さまのことをずーっと思い浮かべていました。ワタツミさまは、実は三柱でひとつの存在なんですね。ウワツワタツミノカミさま、ナカツワタツミノカミさま、ソコツワタツミノカミさま、の三神のユニット。ウワツ、ナカツ、ソコツには、それぞれ、表津、中津、底津の字があてられます。海面、中間、海底ですね。それぞれに役割を担いながら、でも、いつだってユニットとして活動している。そして、三神が一緒にいるときは、そこには「海」そのものがある、ということですね。うーむ、そういうことだったのか! と勝手に納得……。

 

 

 

 

気づいたら3000字!!! す、すみません……。

 

読んでくださった方、長々お付き合いいただきまして、ありがとうございました。