私が書いていることは「真実」ではありません

2016年12月21日

おはようございます。小出遥子です。

正直に告白すると、私は、ほんの少し前まで、
この世界のどこかに「唯一絶対の真実」を表現する
「唯一絶対のことば」がある! と信じ込んで、
それを必死で探し回っていました。

果ては『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』
という本まで出して(笑)。

「“さとり”ということばで表現される世界に、
唯一絶対の真実へのヒントはあるのだろう」
という直観のもと、僧侶の方々に、
文字通り「さとりってなんですか?」と聞いて回ったのです。

「唯一絶対の真実」を表現する
「唯一絶対のことば」を求めて……。

これはこれで、その時々に大きな学びがあったし、
私にとって、ほんとうにたのしい、かけがえのない旅ではあったのですが……。

でも、いま、私は、しみじみと、こんな風に思っているのです。

「唯一絶対の真実」を表現する
「唯一絶対のことば」なんて、どこにもない。

「真実」というものがあるとしたら、
それは言語以前に、ただ「ある」ものであって、
「考える」のではなく「感じる」ことしかできないものであって……。

「考える」というのは「ことばを使う」行為です。
そして、ことばには、意味を認識するために、
ただ「ある」世界を、個別具体的な事象に「分ける」役割があります。

つまり、ことばを用いた瞬間に、「真実」は分割され、
「真実そのもの」ではなくなってしまうのです。

ことばは、せいぜい、「真実」の残り香しか伝えてくれません。

このことは、十分すぎるほどに熟知しておかないと、
ことばそのものを「真実」だと思って掴んで握りしめて、
後生大事に持ち運ぶようなことになってしまいます。

私が毎朝ブログに書いているようなことも、
決して「真実」ではありません。

個人として生きる限り、思考を止めることはできないし、
思考を止めることができないということは、
ことばを用い続けるということです。

そして、ことばでは、「真実」をあらわすことは決してできない……。

だからと言って、ことばを使うなという話ではなくて。
「真実」を探るな、という話でもなくて。

ただ、「旅」に出るなら出るで、
ことばの持つそういった特性を知った上でね、と。

ことばを使って文章を書いているものとして、
これは定期的に記しておかなきゃいけないことだな、と感じています。

 

よい一日をお過ごしください◎