遊ばせてもらっている、ということ。

2014年8月25日

先日、秩父・長瀞まで日帰り旅行をしてきた。自宅の最寄駅から電車に乗り、途中何度も乗り換えた。「面倒臭いよ!」ってぐらい乗り換えた。そのたびに乗客の数はぐんと減っていった。

 

最初は文庫本を読んでいたのだが、ふいに顔を上げて車窓から見た空が、あまりにも「夏休み」と呼ぶにふさわしい解放感を持っていたと、都会の生活ではなかなか見ることのできない、懐かしいような草の匂いが漂ってきそうな緑の風景にすっかり魅了されて、ただただぼんやりと外を眺めることに決めたのだった。なんだか「あの頃の夏」を思い出しそうな風景だったのだ。

 

ちょっとだけ眩しくて、人が少なくて、のどかで、静かで、電車の揺れが心地よくて、少し眠くて……。うつらうつらし始めたとき、ふいに、

 

 

 

「ああ、私、遊ばせてもらっているなあ。」

 

 

 

そんな言葉が脳内に浮かんできたのだった。

 

いや、脳内だけに限らず、全身全霊をもって、発せられた言葉だった。

 

 

 

「私たちは、この地で、心と身体を使って、思いっきり遊ばせてもらっているんだ。ありがたいなあ。」

 

 

 

全身全霊をもって、その実、なんの力みもなく、つぶやくように、軽やかに発せられた言葉なのだった。

 

そして、その言葉はまったくもって真実なのだった。

 

 

 

 

 

私たちは、どこにいて、なにをしていようとも、絶対的に救われている存在で。

 

泣いたり、怒ったり、笑ったり、喜んだり。傷ついたり、傷つけたり、謝ったり、謝られたり。夢を見たり、見失ったり。ケンカしたり、暴れたり、叫んだり、ふて寝したり。着飾ったり、散財したり、借金をしたり。呆れたり、呆れられたり。嫌ったり、嫌われたり。憎んだり、憎まれたり。恋をしたり、恋に破れて絶望したり、それでもまた恋をして、またあらたしい光を見たり……。

 

これって、よく言われるたとえで言えば、これってぜんぶ、本当にぜんぶ、仏さまの手のひらの上で起こっていることなんだと思う。

 

でも、その手のひらの上に絶対的な「世界」というものが構築されているわけではなく……。

 

それらが起こっているのは、実は、個々人の頭の中、なんですね。

 

仏さまの手のひらの上にいながら、全員がそれぞれ個別の夢を見ているのです、私たちは。

 

 

 

仏さまの手のひらは、全人類がそれぞれに心地いいだけのスペースを確保した上で、まだ余りあるほどに広くて大きくて。

 

で。その上で、私たちは、それぞれ、干したての、ふっかふかでほっかほかの気持ちのいい布団を与えられていて、その中で、生まれたての赤ん坊のように、超ぐっすり眠りこんでいるのだ。

 

そうしてそれぞれが見ている「夢」が、それぞれの「人生」なのだ。

 

いい夢も、悪い夢もあるだろう。そのなにが良くて、なにが悪いわけでもない。そういう話をしたいわけではない。

 

ただ、それらはぜんぶ、「夢」なのだ。

 

「夢」でしかないのだ。

 

 

 

本当は、いつ目覚めてもいい。でも、まだ布団にしがみついて、寝ていたいのね。ぐっすり眠って、それぞれの人生という名の夢に、埋没していたいのね。

 

夢の中で、泣いたり、怒ったり、笑ったり……していたいのね。

 

それこそが「遊ばせてもらっている」ということの意味なのだけれど。

 

 

 

目を覚ますのも、そのまま眠り続けるのも、自由。

 

選択権は、こちらに委ねられているみたいです。

 

 

 

でも、勇気をもって目を覚ましたその瞬間には、自分が、いつだって圧倒的な愛を持って見守られていたことに気がつくでしょう。

 

絶対的に安全なところで、圧倒的な愛に見守られていた中で、私たちが、「人生」という名の夢を見続けさせてもらっていたことに、その中で思いっきり遊ばせてもらっていたことに、すっかり気が抜けてしまうとともに、ただただ感謝の念だけに包まれることでしょう。

 

 

 

目覚めても、目覚めなくても、どちらでも良いのです。

 

ただただ、ぜんぶ、遊びなんだ、ということです。

 

遊ぶ自由を与えてもらっていることそのものが、仏の愛というものなのでしょう。

 

 

 

 

 

私たちは、遊びたいのだなあ。

 

そして、遊ばせてもらっているのだなあ。

 

遊ばせてもらっていることに、ありがとう、だなあ。

 

ただただ、それだけだなあ。