ものをつくる、ということ その2

2014年8月24日

昨日の続きです。

 

 

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展示の後半、運慶40代の頃の作、神奈川県浄楽寺の不動明王の前に立ったとき、その思いは一気に高まり、溢れだした。全身から漲る慈悲の力。全力で私たちの存在を肯定してくれているような表情、佇まい。とにかく、頼もしいのだ。そのたくましい胸元にすがって、すべてを吐き出してしまいたくなるような。その強い腕の中で、大声で泣き出してしまいたくなるような。ただ恐いだけのお不動さまなら色々なところでお会いしているが、こんな方は観たことがなかった。力強く、果てしなくあたたかく、やさしいお不動さま。一緒に展示を観ていた人がこんなことを言った。

「この人は、お不動さん本人、って感じがするよね。この人こそお不動さんだよね。」

本当にその通りだった。目の前にいるのはお不動さまその人だった。運慶は、きっと、お不動さまに会ったことがあるんだ。会ったことがなければ、こんな像は作れない。そんな風に思った。

いや、本当は、私たちは誰だって、心の中でお不動さまに会っているのだ。お不動さまだけじゃない。阿弥陀さまだって、観音さまだって、みんな本当は私たちの心の中にいるのだ。というか、私たちの心自体が仏なのだ。私たちは、毎日、泣いたり笑ったりしながら、少しずつ強くなったりやさしくなったりあたたかくなったりする自分自身の心に会っている。それはつまり、毎日、仏に会っているということに他ならないのだ。



仏を彫ることは、つまり、心を形にして表す作業だ。仏の本体が私たちの心の中に確かに存在する慈悲の心や強さやあたたかさならば、自分自身の心の中を、静かに、ありのままに見つめることが、そのまま、仏を彫り出すことにつながるだろう。

運慶はきっと、自分自身の中にいる仏を、つまり自分自身の中に存在する強さややさしさやあたたかさを、ただただ静かに、ありのままに見つめることができた人なのだ。自分自身の中だけでなく、自分と向き合った人々の心の中にいる仏たちをも、静かに、ありのままに見つめることができた人なのだ。

そうは言っても、運慶だって、常に心に仏の境地をもって生活できていたたわけではないだろう。制作が思うように進まず悔しい思いをしたり、人の妬み嫉みにさらされて辛い思いをしたりした日だってあっただろう。果てしなく続く生そのものが、どうしようもなく苦しく思えるような日だってあったかもしれない。どす黒い醜い感情が心に渦巻いてしまう日も、きっとあったことだろう。どんなに「天才」と叫ばれようとも、彼だって、食べて寝る、人間という生き物なのだから。

それでも、運慶は、自分の、相手の心の中に潜り込んで行って、そこで強くやさしくあたたかい仏を見つけて、見つめて、焼き付けて。長い長い心の旅から戻ってきたら、ただひたすらにノミをふるって。仏は、人の心の中にいる。それだけは生涯忘れず、諦めず、そうして数々の素晴らしい仏をのこしたのだ。



心の中に深く潜り込んで行くのは、ひとりぼっちの孤独な作業だ。それでも、そうしてたどり着いた先には、すべての人が共通して持っている何かがある。その何かに触れ、包まれたとき、自分はひとりじゃなかったと気づく。



心という実体のないものをありのままに見つめることは、ひどく苦しく、難しい作業だ。それを目に見えるところにまでひっぱりあげてゆくのは、もっと苦しく、難しい。それでも、その作業は、どこかできっと、必ず大きな安らぎをともなうものなのだ。だってそこには仏がいるのだから。そしてその仏は、すべての人の心の中に共通して存在するのだから。だからこそ、運慶は、そしてすべてのものづくりの人たちは、表現することをやめないのだろう。



表現することで、人と、世界とつながる。表現されたものをみて、人と、世界とつながる。すべてがとけて、合わさっていく。



運慶の彫り出した仏をみて、そこに強さを見出したならば、自分の心の中にも同じ種類の強さがあるということ。そこに慈悲を見出したならば、自分の心の中にも同じ種類の慈悲があるということ。そこにあたたかさを見出したならば、自分の心の中にも同じ種類のあたたかさがあるということ。自分自身の中にも、同じ仏がいるということ。それはなんて心強いことなんだろう。それに気づいたら、あとはもう、精いっぱい生きていくだけだな。そんなことを思った。



勇気の素のようなものをもらった展示だった。運慶に、すべてのものづくりの人たちに、そして自分に、頑張れ。と言いたくなった。