ものをつくる、ということ その1

2014年8月23日

今日明日と夏休み第二弾をとらせていただきますので、昔(2011年2月に)書いた記事をアップいたします。

 

よろしくお願いいたします!

 

 

 

 

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ものをつくる、というのは、とりもなおさず、自分と相手、人の心そのものを見つめる、という作業だ。

 

運慶の彫り出した仏たちと向き合って、私はあらためて、その事実を強く思った。



先日、神奈川県の金沢文庫で開催されている「運慶―中世密教と鎌倉幕府―」という展覧会に行ってきた。処女作から最晩年の作まで、仏師運慶の真作が一同に会するという、滅多にない貴重な機会と聞いて、昨年からずっと楽しみにしていたのである。

展示室に足を踏み入れると真っ先に目に飛び込んでくるのは、奈良・円成寺の大日如来坐像。運慶のデビュー作と伝わる作品だ。彼が20代の頃に作ったというこの像は、全身から若々しいパワーが漲っていて、それでいて果てしなく静かな印象を観る者に与える、不思議な作品だ。運慶の彫り出す仏は、一般に、像の周りの空気まで巻き込んでしまうような動的な要素を持つことが特徴とされているが、この大日さまは、そういった力強さと同時に、仏の境地、つまり内面の寂静の世界をも、何の矛盾もなくその身に同居させてしまっているのだった。

動と静の同居。矛盾を孕んでいるようでいて、ありのままに、自然。不思議なような、これが本当のような、でもやっぱり不思議。それゆえに、惹かれる。そしてその印象は、その展示室に集められたどの運慶仏からも、一貫して感じられるものだった。

これまでも、奈良や静岡で、幾度か実物の運慶の作品に触れてきていたので、そのただならぬ魅力は実感として私の中に残ってはいたのだが、それにしてもそれらが一同に会したときのパワーは半端なものではなかった。ただただ圧倒されてしまった。そして気が付けば、ひとつのことが繰り返し頭を巡っていた。

運慶って、何者なんだ?



私は、普段、仏像と向き合うとき、その仏像が誰の手によるものなどということは、ほとんど考えずにいる。「止利仏師の作」だとか「定朝によるもの」だとかの一般的な知識は、一応頭の中にはあるのだが、実際に仏の前に行くと、そういったものは、ほとんど意識の底に沈みこんでいってしまう。ただただ、目の前にいらっしゃる方と対峙するだけ。仏像は美術品としての側面ももちろん持ってはいるが、それ以前に、心の現れ、だから。「もの」として、対象化することができないのだ。知識は必要だ。理解を深めるよすがになってくれる。だけど、実物を前にしたら、そのときだけは自分の感覚だけに集中してしまってもいいんじゃないか。仏と向き合ったときに、自分の心に起こる変化を、ただ、静かに見つめていればいい。そんな風に思っていた。

だけど、今回ばかりはそうはいかなかった。だって、どの仏を観ても、そこにいるのは仏であって、運慶であったのだから。

当然だが、実際、運慶本人に会ったことがあるわけではない。でも、理屈でなく、分かるのだ。それは、仏であって、運慶なのだ。運慶という人物を、強く意識せざるを得ない仏たちが、そこには集まっていたのだ。

 

 

 

(その2に続きます)