「さとり体験」は必要ない

2016年12月18日

おはようございます。小出遥子です。

今日は拙著の引用から……。

小池:まあ、究極、素朴な言い方をすれば、「さとり」とかいうのはどうでもよくて、傷つかないで生きていくというのが大事なことなのです。

小出:それは、そうですよね。私も、できるだけ傷つかずに生きていきたいと思っています。

小池:はい。そちらの方が遥かに大事なことです。

『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』p.120より抜粋)

「さとり」とかいうのはどうでもよくて、
傷つかないで生きていくというのが大事なこと――

この小池龍之介さんのことばは、
まさしく仏道の本筋を示しているのではないだろうか、と思っています。

仏教は、「傷つき」の原因を明らかにし、
つまりは「苦」の仕組みを解き明かし、
ただただシンプルに、そこを超えていくことを目指すものですからね。

そして、「苦」を超えるためには、
なにも特別な体験など必要ではなくて……。

ここでいう体験というのは、
まあ、「さとり体験」とか「宗教体験」とか「神秘体験」とか、
そういうことばであらわされるものたちです。

私も、昔、ある種の「体験」をして、
「自他一如」「自他未分」の世界を
まざまざと「見た」ことがありましてね……。

その「体験」の直後は、
「いま見たものこそが“さとり”の世界だ!!!」
と、かなり興奮してしまってですね、
「私はついにやったぞ! ついにさとったぞ!」とかね(笑)
相当恥ずかしい勘違いをはたらいていたものですが……。

そう、それは、「勘違い」だったんです。

「体験」は「体験」でしかないんです。
「体験」は、必ず流れ去るものだからです。

「苦」というのは、
流れ去るものをとどめておこう、
と願うこころから生じます。

「流れ去る体験」にしがみついている限り、
「苦」からの脱却ははかれないのです。

じゃあ、どうしたらいいのか。

「流れ去るもの」の背後(背後、でもないんだけど。便宜上!)にある、
「決して流れ去らないもの」に、ただ気づくこと。

それだけが、「苦」から離れる道です。

そして、その「気づき」のために、なにか特殊な体験は必要ありません。
だって、「流れ去る」ものを「流れ去る」ものたらしめている
「決して流れ去らないもの」は、
ほんとうは、いつだって、ここに「ある」からです。
ただ「ある」ことを、信頼すれば良いだけなんです。

そういう意味で、なんのジャンプも必要ない「念仏」とか、
先ほど更新したDialogueにご登場いただいている
小関勲さんの「ヒモトレ」とかって、
やっぱり、とても優れているなあ、と感じるのです。

ただ「となえる」だけ。ただ「巻く」だけ。
特殊な体験を要しない「気づき」に、無理なく導いてくれるものたち……。

そういったものを紹介していくのも、
このTempleというプロジェクトの役割なのかもしれないな、
なんてことを思っています。

小関さんとのダイアローグ、面白いですよ。
ぜひ、お楽しみください。

 

よい一日をお過ごしください◎