自由意思と自由の関係

2016年12月13日

おはようございます。小出遥子です。

「すべては縁の中でおのずから起こっている」
といったようなことを、私もしょっちゅう書くのですが、
そうすると、時折、「個人の自由意思はないのですか!?」
といった涙混じり、鼻息混じりのご質問を受けます。

結論から言えば、まあ、「ない」ですよね。

そもそも個人などという確たる存在が「ない」のですから、
当然、自由意思だって、「ない」です。

以上!!!

……で終わりにしたいけれど、
それではやっぱり納得がいかないと思うので
(納得いかないから質問をくださったのでしょうしね)
もうちょっと書いてみます。

たぶん、「納得がいかない」一番のポイントは、
「自由意思がないなんて納得いかない!」と感じている
「個人」としての「自分」は、
いまここに、確実に「ある」じゃん!
ってところだと思うのですよね。

うん。
まあ、ありますよね。
それは、確実に、あると思う。
そこは、否定できません。

いや、ほんとうは、
「自由意思がないなんて納得いかない!」と感じている
「個人」としての「自分」すら、
縁の中でおのずから立ちあらわれてきたものであり、
つまりは実体なきまぼろしなのですが……

が。

いまここにおいて、
「自由意思がないなんて信じたくないよ~」
「自分はここに確実に存在しているよ~」
という思いが湧き上がっているのなら、
それは、間違いなく「ある」んです。

「ない」の上に、「ある」んです。

それはそれでいいんですよ。
ぜんぜん、なんの問題もない。

でも、ここで決して見落としてはいけないポイントは、
「ない」の上に「ある」というところで、
「ある」の上に「ある」わけではない、ということなんです。

ややこしくなってきた……?
もうちょっとお付き合いくださいね。

個人はない。だから自由意思もない。
だからこそ「自分はある」という感覚を味わう自由がある、ということ。

自由意思がないことを認めるのは、
自由を失うこととイコールではないんです。

むしろ、自由意思がないことを認め切った先に、
ほんとうの意味で自由な世界が開かれているのだと思う。

「ある」世界には限りがある。
「ない」世界には限りがない。

どちらがほんとうに自由かな?

 

よい一日をお過ごしください◎